その手をつかんで

41.ハンドルを握る先生の手


車は先にジャンの家を回り、彼を降ろしてから僕らの家に向かった。

ルーラはだいぶ安心したようで、表情が穏やかになる。

ルーラは僕に全幅の信頼を置いているから。

そう自惚れることくらいは許してほしい。

僕だけに向けられる無防備な信頼は、僕の男としての自尊心を大いにくすぐるのだ。



無言だった車内で声を発したのはスミス先生だった。

「クローゼは、狭いところが苦手か」

唐突な問いに、ルーラは戸惑いながら答える。

「いえ、特にそういうことは…」

「では、夜は」

「夜、ですか?ええと…気分によります。静かで気持ちがいいと思うこともあるし、怖いと思うことも、あります」

「今日は、どうかな」

「今日は…それどころじゃなかったから…」

「そうか」

僕は首を捻った。

先生は何を聞こうとしているのだろう。

「となると、原因はやはりフーバーか」

ルーラの顔色が変わった。

僕もハッとして先生を見る。

彼は、ルーラの過呼吸の原因のことを言っているのだ。

ルーラは閉所恐怖症でも、暗所恐怖症でもない。

それを確かめたのだ。

「彼と何かあったのか?」

ルーラは即座に否定する。

「いいえ、何も」

「クローゼは、フーバーが苦手…いや、怖いのかな?」

ルーラは慌てて口を開く。

が、そのまま言葉を詰まらせた。

沈黙はすなわち肯定の役割を果たした。

先生はフッと頬を緩める。

「悩みが尽きないな」

ルーラはシュンと頭を垂れる。

しかしそれは落ち込んだ表情ではなくて、生徒が先生に図星をさされた時に見せるそれであった。

僕は二人の間に一定以上の信頼関係を感じた。

「どうして苦手なんだ?」

「わかりません。フーバーくん、大人しい人だし、怖がる要素なんて全然見つからないんです。なのに、突然怖くなる…。失礼な態度ばっかり取っちゃうんです。彼はなんにも悪くないのに、ひどい話です。…私、どうしたらいいんでしょうか…」

先生は目を細めた。

「クローゼは、夢を見るか?」

僕はギクリと目を剥く。

ルーラはキョトンとしてミラーの中の先生を見た。

「ええと、見ますよ。取り留めのないものばかりですけど。…夢って、そういうものですよね?」

「取り留めのないものばかり?本当に?」

ルーラは意図を掴みかねる、といった顔をしている。

僕は内心ひやひやしていた。

先生は何を聞こうとしているんだ。

まさか、核心に迫ろうとしているのか?

バカな。

こんなに憔悴しているのに。

ルーラはふと思考の海に沈んだ。

「…眠るのが怖い時があります。そういう時は夢見が悪いみたいです。私は夢の内容を覚えてないんですけど、うなされてるみたいで」

僕にチラリと視線を走らせる。

「それは、どんな時?」

「どんな…」

ルーラは視線を伏せた。

僕は当惑の眼差しで先生を見つめる。

先生はただ黙って僕の視線を受け止めた。

「例えば、何かを思い出しそうな気がする時、ということは?」

「せ、先生!」

僕は思わず声を上げる。

「次の信号を左に曲がってください。300Mほどで家に着きますから」

先生は苦笑して頷いた。

「わかった。ここまでにしよう」



家の前には、ルーラの両親と、うちの母親が出てきていた。

親たちは恐縮して先生に頭を下げる。

先生も礼を返し、学校側の管理不行き届きを詫び、今後は見回り強化に努めると述べた。

それでは、と挨拶をして車に乗り込む直前、先生はルーラに視線を投げる。

「さっきの話だが、一度ゆっくり考えてみるといい。その先に、君の疑問の答えがあるかもしれない」

僕は顔を強張らせた。

ルーラはオドオドと頷く。

「は、はい…」

では、また明日な。

先生はハザードランプを二度点滅させて、車を発進させた。

「ルーラ」

ルーラのおばさんが安堵のため息をついた。

「まったく、心配かけて…」

「ごめんなさい」

「何ともないのね?」

「うん」

半歩後ろでおじさんも表情を緩める。

「無事で何よりだわ」

僕の母親がにこにこと声を掛けた。

三人は慌てて振り返り、揃って深々とお辞儀した。

その様子を見て、親子だなぁと思う。

「本当にご心配をお掛けしまして」

「マルコくんも悪かったなぁ。わざわざ探しに行ってくれて。ありがとうな」

いえ、と僕は笑顔を向ける。

ルーラがお礼の代わりだろう、小さく微笑んだので、笑みをさらに大きくした。

その場の空気が落ち着いたのを見計らって、母親がルーラに目を合わせた。

「ねえ、ルーラちゃん。今日はうちに泊まっていかないかしら?」

穏やかな口調で問う。

ルーラは少し驚いて、控えめにおばさんを咎めるような視線を送った。

母は首を振る。

「違うのよ、ルーラちゃん。言い出したのは私なの」

「え…」

「ほら、最近部活が忙しくて、遊びに来てくれる機会がめっきり減ってたでしょう?私、寂しくてねぇ」

ルーラは心揺れているようだった。

何があったかはわからないが、あそこまで動揺していたのだ、余程のことがあったはずだ。

やはり心細いのだろう。

「ルーラ、いいんだ、ルーラの好きなようにして。周りのことは気にしなくていいんだよ」

ルーラの顔が強張った。

目が険しく細まる。

ああ、アプローチの仕方を間違えた、と僕にはわかった。

ルーラは笑みを浮かべる。

余所行きの笑みだ。

「やっぱり遠慮しておきます。もうこんな時間だし、今度、部活のない時にゆっくり遊びに行きます」

母は困ったように笑って、ちらりとおばさんに目を遣った。

おばさんはため息をついて小さく頷く。

「わかったわ。きっとよ」

「はい」

ルーラは僕に視線を移す。

「マルコ、今日はありがと。迷惑かけてごめんね。また明日」

「うん、また明日。寝坊するなよ」

「わかってる」

ルーラはひらりと手を振って、先に家に入ってしまった。



おばさんが母に申し訳なさそうに会釈する。

「ごめんなさいね、気を遣わせちゃって」

「気なんて遣ってないわよ。確かにお互い素直に同意できない年齢よね」

母が僕を横目に見るので、僕は苦笑いを浮かべる。

「私はマルコくんを信頼してるわよ」

「あら、そんなに信頼してもらっちゃ困るわよねぇ?将来はルーラちゃんにお嫁に来てほしいと思ってるんだから」

僕は突然の振りに大いに焦る。

「母さん!」

「それもそうねぇ。マルコくんも年頃の男の子だものね。いつまでもうちの子のお守りさせるわけにもいかないわよね」

「大丈夫よ。ルーラちゃんとの関係が壊れて一番困るのはうちの子だもの。滅多なことはしないわよ」

どこかずれた二人の会話に、おじさんが微苦笑した。

放っておけ、と目で僕に合図する。

僕は曖昧に笑むことで返事の代わりにした。





けど、やっぱり多少強引にでもうちに連れていけばよかったのかもしれない。

翌日以降、ルーラは少しずつ体調を崩していった。

それは緩やかな変化だったので、僕はすぐに気付くことができなかった。

不眠が原因だと気付いた時には、ルーラはもう既に憔悴し切っていた。





(20140608)


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