その手をつかんで

38.知らぬ面影


私たちは、ぽつりぽつりと他愛のない会話を交わしながら時間を潰していた。

お互いこんなに長時間話をするのは初めてで、だんだん無くなっていく話題に焦りを感じている。

そして、私はひやひやし始めていた。

これ以上長くフーバーくんといると、また「あれ」が襲ってくるのではないか。

そんな不安が、時折ふいをついて過る。

でも一方で、やはり彼との会話は楽しかった。

こんな状況だというのに、話すことも底を尽きているというのに、もっと彼と話したいと思った。

彼の声が聞きたかった。

こうして話していると、つくづく普通の男の子だ。

背丈の割にちょっと気の弱い、普通の男の子。

何故、彼に恐怖を感じなければならないのだろう。

スイッチを入れたように突然襲ってくるあの感情は何なのだろう。

今は不思議でたまらない。

だが、一度スイッチが入った後のあの絶望感の理由を「知っている」と感じる自分がいることにも気付いていた。

その時の自分は、彼ともっと親しくなりたいと思う自分をなんて愚かなことと罵っている。

何故。

会ったばかりの人間だ。

しがらみなどあろうはずもない。

本当に?

と誰かが問う。

当たり前だと一蹴しようとするが、何かがそれを押し留める。

彼を知っている?

以前どこか出会っている?

まさか。

だとしたらここまできれいさっぱり忘れるものか。

そこまでもうろくしてはいない。

彼は――どうなのだろう。

彼は私を知っているのだろうか。

ハンドボールについて語っている彼をそっと窺う。

「45(ヨンゴー)って言うのが、攻撃の要のポジションなんだ。左45がライナーで右45がジャン。マルコはセンターで、司令塔のポジションだよ」

「へえー。フーバーくんのポジションは?」

「僕はポスト。相手のディフェンスの中に入り込んで、守りを崩したり、隙をついてシュートしたりするんだ」

「なんか、敵地に送り込まれる刺客って感じだね」

フーバーくんが僅かにたじろいだ。

ように見えた。

「…そうだね。僕には似合いのポジションだ」

私は首を傾げる。

「ふーん?じゃあジャンの見る目があったってことかな。最初からあいつはポストにもってこいって言ってたもんね」

フーバーくんは更に顔を歪める。

「…そう…きっとそうなんだろうね」

私は慌てた。

「フーバーくん…?ごめん、私何か…」

「ジャンは」

私の言葉を遮り、フーバーくんは笑った。

「やっぱり上手だよ。毎日練習してるのもあるし、部活を背負ってる責任感みたいなものがある」

「へぇー…ジャンが…」

フーバーくんは、ふと真顔になる。

「ジャンとは、もう大丈夫?」

私は破顔した。

それだけ二人の関係は改善していた。

そして、私はそのことをとても嬉しく思っていた。

「うん。心配してくれてありがとう。もう平気」

「よかった」

「それより、ライナーは?あれから何ともないの?」

「うん。あの時は一時的に動揺していただけで、体の調子が悪かったわけじゃないから」

「そう。ならよかった」

私たちは微笑み合う。

彼の瞳がすっと細められた。

その瞳が、何か特別な感情を含んだ気がして、私は正体を見極めようと彼を見つめる。

答えを見つけられないうちに、彼がポツリと私の名を呼んだ。

「クローゼさん」

私は返事の代わりに小さく笑んでみせる。

「クローゼさんは今、幸せ?」

私はキョトンとした。

随分と掴みどころのない質問だ。

私は咄嗟に返答に困って、肩を竦める。

「今はあまり幸せとは言えないかな。なにせ、倉庫に閉じ込められてるし」

フーバーくんは数度目を瞬いてから、くすりと笑った。

「確かにそうだね」

「でも、今までの短い人生を振り返ってみるなら、それなりに…ううん、かなり幸せかな。倉庫に閉じ込められたことを帳消しにしても余るくらいには」

フーバーくんは微笑んだ。

その笑みは全てを包み込む祖父のしわくちゃな笑みを思わせた。

それでいて、泣いているようにも見えた。

「よかった」

その表情は、旧知の友や大切な人々に向けられる種類のものであるように思われた。

私に向けられるには、まだ早いような気がした。

――それとも。

私は先ほどの自問自答を思い出す。

彼は、私を知っているのだろうか。

私は思わず問い掛けていた。

「ねえ、フーバーくんは私を知ってるの?昔、どこかで会ったこと、ある?」

私の問いを聞いた途端、フーバーくんは目を見開いて固まった。

が、それも一瞬のことで、すぐに穏やかな表情を浮かべてゆるゆると首を振る。

しかしそれは、努めてそうしているように見えた。

「僕は高校で初めてクローゼさんに会ったと思うよ。それとも、以前どこかで会った?」

私も同じようにして首を振る。

「ない…と思う」

フーバーくんは頷いた。

けれど、私は納得していなかった。

彼の取り繕った表情の後ろに何かが隠れている。

あの一瞬の動揺の中にそれが潜んでいると思った。

そしてそれは、私の中に眠るあの恐怖と多少なりとも繋がっている。

胸が騒ぐのだ。

私はこの会話をこれで終わらせたくなかった。

この流れを断ち切りたくなかった。

だがそれ以上に、どうしても聞きたいことがあった。

確かめなければならないと突き動かす衝動があった。

「フーバーくんはさ、フーバーくんは、今、幸せ?」

フーバーくんは私を見た。

私もフーバーくんを見つめた。

フーバーくんの顔は、何かを求めるように歪んだ。

そして、やがて私が「幸せだ」と言った時と同じ笑みに変わった。

「うん、僕は今、幸せだ」

私は今、とても嬉しかった。

なのに、とても切なかった。

胸が痛かった。

歓喜と遣る瀬無さで、心を形作る柔らかな膜が引きちぎれてしまいそうだった。

「よかった」



私は、彼のこの目を知っている気がする――



天井近くに設けてある明り取りから、月明かりが入ってきた。

明かりは筋を作ってそっとフーバーくんに降り注ぐ。

彼の黒髪が仄かな光を宿した。

彼が小さく、あ、と漏らす。

「髪に埃がついてる」

彼は私に向かってゆっくりと手を伸ばす。

「ちょっと動かないでね」

彼の手が伸びてくる。

月明かりが彼を淡く照らす。

輪郭が優しい光を放っている。

彼の瞳が零れるように揺らめいている。



ふと、輪郭がブレたような気がした。

私は違和感を拾って目を瞠る。

彼は制服を着ていなかった。

彼は、襟のついたシャツにカーディガンを羽織っている。



私はハッとした。



――これは彼ではない。

彼と同じ顔をしているが、別人だ。



腹の底であぶくが生まれ、上がってくる。

砂漠の地下深くで、泉がざわめいている。



彼の手が近づいてくる。

光が波打つように彼の頬を弾いている。

彼は泣いていた。



――ルーラ…許してくれ…



彼が私に触れようとする。

私の髪に。



――いや、首に。



ひゅっと喉の奥が鳴った。





(20140528)


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