諏訪との出逢いは、もう遥か昔に遡る。
諏訪に初めて逢ったのは、鹿島が出雲へ国譲りの交渉をしに来ていた時だった。
「おい誰だ!人ん家きてこそこそ内緒話してる奴は!」
響く怒声と共に、ざぁっ…と強い風が鹿島の頬を叩いた。
勿論、食って掛かる輩がいるだろうとは構えていたし、驚いたりもしなかった。
…のだが。
彼を見た瞬間、時が止まった。
…ような気がした。
(…こいつは面白い)
煌めく刃のような鋭さを秘めた瞳を持つ彼に、初めて対峙したときに心が揺さぶられるのを感じた。
剣の上で胡座をかいている鹿島を見るなり、秀麗な顔に怒りを滲ませ、殺気立ち射抜くような瞳で睨んできた諏訪。
鹿島は、肌が粟立ち、ゾクリと背中を駆け抜けたあの時の快楽を今でも鮮明に覚えている。
今まで生きてきて、鹿島に楯突くなどという命知らずなど彼が初めてだった。故に新鮮に感じたのもある。
しかし最も大きな要因は、鹿島を本気にさせたことだった。
この突き刺すような殺気…なんとも心地がいい。
(久々に楽しめるかな)
国主の制止を聞かずに鹿島に掴みかかった諏訪に向かって、鹿島は楽しくて仕方ないと言うように「ニヤリ」と口元に弧を描いた。
しかしながら結局。
諏訪は痛め付け追いかけ回せば、口ほどにもなく敗退した。
少しは抵抗するかと思ったのに。
もう諏訪は逃げる気力さえ無いようだった。
(…結局は口だけか)
つまらない。
つまらない。
ツマラナイ。
―…もう終わりか。
酷く渇いている。
心が死にそうな位に、からからに渇いている。
鹿島は今まで力で全て捩じ伏せてきた。
力を持てば、強くなれば、鹿島を疎ましく思う輩も全て鹿島に頭を垂れた。
天照も鹿島を認めてくれて、家臣に迎え入れてくれた。
鹿島に、高天ヶ原は貴方の場所だと。言ってくれた。
嬉しかった。
認められた気がして。
優越感さえ覚えた。
しかしそれも最初だけだ。
居場所があるのに、強さを手にしたのに。
心が空っぽのようで、渇きが益々酷くなる一方だった。
その虚しさは、埋めようにも埋めることなんてできない。分かっていた。
けれどもどうしても
この渇きを満たす何かを、鹿島は欲していた。
そんなときに、諏訪は表れた。
初めてだった。
あの高揚感も、なにもかも。
彼と関われば何か変わると、そう期待した自分は間違っていたのだろうか。
がっかりだ、と内心ごちて、鹿島は湖に突き落とした諏訪を無表情に眺めた。
「なんだ。もう逃げんのか。
…つまらんな」
久々に楽しめそうだと思ったのに。
シャッ…と刀を抜いて構える。
諏訪が身体をびくりと震わせ、顔を一気に真っ青にして目を見開いた。
死ぬ。
そう覚悟したに違いない。
せめて痛くないように逝かしてやろうか。鹿島が他人事のように思っていると。
――…ぺたり、と。
次の瞬間、諏訪は手をついて頭を垂れた。
「…すみませんでした」
自分はもうこの地からでないから。
だから殺さないでくれ、と。
今にも消え入りそうな声で告げ、諏訪は小刻みにかたかたと震え出した。
諏訪の漆黒の髪に、上から降り注ぐ柔らかな光が反射する。
鴉の濡れ羽のようなそれが、きらきらと光を吸って淡く輝いた。
鹿島が今から致そうとしている事とはかけ離れ過ぎたその光景は、ただただ穏やかで美しかった。
そして。
その刹那、鹿島の手が止まった。
というよりかは、"止まって"いた。
…――おい、何、弱ってんだ。こっち見ろよ。
軍神として。天照の守護者として、彼女に逆らう者は全て切り捨てれば良いと考えていた自分が。こんなにも躊躇いを感じたのは初めてだった。
…――黙ってんじゃねえよ。俺を本気にさせてみろよ。
憤りながら諏訪を睨み付けても、彼はただ頭を下げるだけ。
あの射抜くような光を宿した瞳が、今は自分に向けられていない。
それが、堪らなく腹立たしかった。
諏訪を殺すということは、この真っ直ぐな瞳が、この軍神である自分をその気にさせたその瞳が色を失い、もう自分を映さなくなること。
そう考えたら、それは嫌だと胸の奥がもやもやとし出した。
(…っ…。
…なんなんだ…。くそ…)
内心悪態をついた鹿島は、刀を鞘に納めて踵を返した。
刀をしまった音にハッと顔を上げて、目を白黒させる諏訪を尻目に鹿島は歩きだす。
本当に、自分自身訳がわからない。
なにをやってるんだろうか。
迷いで刀を振りかざせなかったなど、武神としての恥だ。
鹿島は、自分へ沸き上がってきた憤りに顔をしかめるしかない。
一度失ってしまった戦意は戻そうとて戻せるわけでもなく、鹿島は心底自分に呆れてしまった。
今の気分に重ね、こんな状態の諏訪を斬ったとて更に後味が悪くなるだけだ。
全く。諏訪のあんな姿を見せられたくらいで妥協してしまうなんて、天照の下に長年いた影響だろうか。
だが、不思議なものだ。
逢ったばかりだというのに、彼を知りたいと思っている自分もいる。
苛立ちと焦燥感が混じったような、不思議な気持ちでいっぱいだった。
(…タケミナカタ…か。
…不本意だが、見逃してやるよ)
命拾いをした。とへたりと脱力している諏訪を一瞥しながら、鹿島はなんとも言えぬ胸中で出雲に戻ったのだった。
そういえばあの後、諏訪を生かしたことに、経津主に意外だね。等と微笑まれたものだ。
あの時は彼が微笑んだ意味がよく理解できなかったが、今思えば、経津主は最初から分かっていたのかもしれない。
鹿島が諏訪に興味を抱いたことに。
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