美猿
口づけながら泣きたいななんて思うのは、君とこの先、生きることが出来ないと感じてるからかもしれない。
「あ‥‥‥。」
開かれた目には、白い天井が映る。さっきまでの出来事は夢だったのか、それこそ夢でよかったのかもしれないが、多少なりともやるなさは存在していた。
(なんて夢だよ。)
それは伏見猿比古にとって有り得ない夢であり、猿比古がのどから手がでるほど欲した未来だった。
いや、あの夢で自分は泣いていた。夢だというのに、はっきりと夢の中の感情を思い出せる。
あの夢の自分は、別れを悟りながらも哀れに一途に思い続けていた。
どこの恋する乙女だ、そう夢の自分を罵倒する。別れを知りながら、どうしてそんな真似が出来る。どうしてその未来を回避するために奔走しない、猿比古にとって苛立ちの矛先は相手ではなく自分自身に向かっていた。
改めて時計を確認すればまだまだ起床するには早すぎる時間帯である。外にでたところで街にも誰もいないのだろう、いつものように短く舌打ちをしながら、再びベッドに体重をかける。
薄暗い部屋の中でもう一度目を閉じる。眠りにつければ上等だったが、現実はそこまで優しくない。
やってこない眠気は、代わりというように先程の夢をリフレインさせる。
(ーーー×××、×××、×××。)
焼いた吠舞羅の痕が存在を示すように熱を持って暴れ出す。
それを鎮めるように、赤子が指をしゃぶるように、ごく自然に猿比古は痕をかきむしる。
むなしい行為だ。この行為は性行為のようにむなしく、猿比古の心になんの平穏も温かみも寄越さない。
やまない熱をうちに抱えながら、サイドテーブルに置かれた写真立てを見つめる。
隠し立てすることもなく置かれたその写真は、ぼやけた視界では曖昧にしか認識出来ないが、猿比古の全てといっても過言ではない。
そこから全てが始まって、そこで終わりを迎えた。けれど全てが過去の話だ、先も後もありはしない。
悲しい一人の男の顛末だ。
猿比古は写真から目をそらす。シンプルなこの部屋に、必要以上に目を引くものは存在しない。いく宛のない視線はさまよい続け、天井に帰結した。
「もーいいかい」
とりとめのない感情をせき止めるように、ぽろりと言葉がこぼれた。
猿比古が小さい頃、隠れんぼが一番好きな遊びだった。隠れることも鬼の役目も好きだった。
ただ、まーだだよの声だけは好きになれなかった。一人で待ち続ける行為が孤立の恐怖を感じていたからか、待つという行為が苦痛だったからなのか。
「もーいいかい」
また同じ言葉がこぼれ落ちる。独りで待つのは怖くて痛い、そんな事子供の頃から知っていたはずだったというのに、どうして止められないのかと猿比古は自問自答する。
「まーだだよ」
弾みのように出てきた言葉は虚しさを増加させるばかりだ。独りで隠れんぼはできない。隠れても、見つけられなければ意味はない。そう。誰かに見つけてもらわないといけない。
だれにも猿比古の声は届かない。一生かかっても届くのは、恐らくは本当に届いてほしい人間ではなく他の誰かだ。
そして声が届いた人間は、きっと猿比古を憐れみ、助言するだろう。
「もういいんだよ」と。
しかし違うのだ。猿比古が欲しいのはその言葉ではない。そんな言葉が欲しいのなら、とうの昔にバーのマスターやお節介な教育係が、はたまた今の上司や年上の部下の誰かがが猿比古の心をどろどろに溶かしているはずだろう。
声を枯らして叫ぶことをやめた。その選択が猿比古にとって、どれだけ苦痛で苦渋の選択だったのか、心の渇いた猿比古自身にもわからなかった。
(×××)
「今誰か喋った?」
「いや誰も喋ってないで?」
変なやっちゃなぁ。とからから笑うバーのマスターに釣られて物忘れなどの突拍子のない言葉を並べる彼。
「‥‥‥‥とどいてる。後、少し」
赤いビー玉を覗き込んでその様を見守っていた少女は、誰に向けたのか分からない言葉を発した。
諦めている彼に、この声が届いたらいいのに。ビー玉をポケットにしまって少女は少しぬるくなったココアを飲み干した。
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