一言も発することなく、梓は草履を履いた足を躊躇うことなく進め、縁を力一杯蹴り、黒い海へと自ら身を投じた。
この時ただの一度として背後を振り返らなかった、と言い伝えられている。
闇よりもなお暗く荒れ狂う波間を縫うように、白い女の裸体が時折現れる。
溺れているのでも漂っているのでもなく、懸命に泳ぎ続けているらしい。
すぐさま命を落としたと思われた梓は、うまく海に飛び込むなり、身につけた全ての衣装を脱ぎ捨てていた。
そう、一か八かの賭けに勝ち、彼女は何とか命を保っている。
しかしどんなに泳ぎが達者でも、濁流が荒れ狂う海を泳ぎ切れる人間は少ない。
懸命に呼吸をしようにも、口から鼻から容赦のない海水が入り込み、波はしつこく彼女を頭から飲み込もうと襲いかかる。
(やっぱりここで死ぬのかな…皆の言う通り死んで楽になれるならいいかもしれない)
空と海の違いが判らない程の漆黒の世界で、梓はとうとう疲れきった手足を動かすのを止めた。
途端に一際大きな波が、彼女の細い体に襲い掛かる。
痛いぐらいの水の鞭に叩きつけられ、その意識を手放す間際、梓は急激に近づいてくる何か暖かい光に全身を包まれたような気がした。
ざぷん…ざぷん…
穏やかな波音が聞こえる。
(…私、生きてる…?)
海の底なら波は起きないだろうからと悠長な事を考えながら、梓はゆっくりと目を開けた。
思った通り、彼女は浜に打ち上げられているらしい。
久々に見る太陽は暖かく、濡れねずみだったはずの彼女をすっかり乾かしてくれたようだ。
あんなにしつこく毎日降り続けていた雨雲は、すっかり退散している。
しかし生け贄の彼女が生きていると言うことは、祭は完成しなかったことになる。
なのになぜ天気は回復したのか。
「良かった。生きていたようだね」
ふいに耳に飛び込んできたまだ若い男の声に、梓はぎょっとし慌てて視線を向けた。
声の印象を裏切らない線の細い、そして特徴のない顔立ち。
大分くたびれた無地の紺の着物も、目を引くようなものではない。
目を離した途端、忘れてしまいそうな印象の残らない男が微笑んでいるのだが、
「水飲んで苦しそうだったから、陸に連れてきたんだ。人間って不便なものだと忘れていたよ」
発言だけは尋常ではない。
「…あなたは…くしゅんっ」
唐突にくしゃみをした途端、薄布一枚まとっていないと気づいた彼女は、慌てて起き上がり体を隠すようにしゃがみこんだ。