午前零時を回る頃、大東亞文化協會と掲げられた看板の横の扉を押し開け重たい足取りで食堂に向かう。廊下を曲がり目指す場所が奥に見えると、そこからは微かな明かりは漏れているけれど話し声が聞こえない。まさか珍しく結城中佐が一人いたりして……ごくりと喉が鳴る。
「ああ、おかえりなさい」
出迎えてくれたのは結城中佐ではなく三好くんだった。
「……ただいま」
緊張の糸が切れて拍子抜けしたと同時に安堵する。あの機関員達ですら畏怖を感じている結城中佐に、私がそれ以上の恐怖を感じているのは当然だった。
「何て顔してるんですか」
「……そんなに酷い?」
「酷いというより気持ち悪い」
そうか、気持ち悪いですか。そして酷いのはそんなことを言ってくれる貴方ですね……とは口に出さないけれど。こんなのはもう慣れっこだ。
「ねえ、疲れた」
「そうですか」
言いながら三好くんは自分の座る隣の椅子を引いて私にも着席するよう促す。何だかんだ言いつつ話を聞いてくれる気はあるんだな……倒れこむように彼の方を向いてそれに腰掛け、背凭れにだらりと肘をついた。
今日の任務は特に困難な内容ではなかった。それでも私ひとりに任されたものだというだけでいつもより余裕がなかったのも事実で、改めて機関員達の優秀さと頼もしさを思い知る。それと同時に中途半端な自分という存在がとても厭らしく思えた。三好くんにたらたらとつまらない話を聞いてもらっている間も、ずっとその考えがぐるぐると頭の中を巡っていた。
「はあー……。……さて、と」
「……何です」
大きな溜め息の後で徐に立ち上がって自分の椅子を三好くんの座るそれにぴたりと寄せる。私のこの行動に三好くんは先の言葉を発したけれども特に驚きもしていないのでそのまままた腰を下ろす。そうして触れ合った彼の肩にくたりと頭を預けた。
「言ったでしょ?疲れたの」
「だから」
「甘やかして」
生憎互いに同じ方向に目を向けたままなので上目遣いでおねだりなんて可愛らしいことは出来ない。それにやったところで塵を見るような目で見られるのは明らかで、どうせ逆効果だ。三好くんはやれやれ……と大きく息を吐いてからフッと軽く笑った。
「どうして欲しいんです?」
「煙草吸いたい」
そんなものは手を伸ばせばすぐ届くところにあるというのにそうしようともせず告げると、三好くんは何も言わず煙草とその上に重ねられたマッチの箱をテーブルの上を滑らせて手に取る。そして一本取り出すと私の目の前に差し出すので咥えたら流れる様にマッチを擦る。すうと息を吸うとその先端はちりちりと赤く火を宿して煙を吐いた。もわもわと視界を濁す煙を見つめながら今日は眠れないかもと呟く。
「添い寝でもします?」
「それより明日代わりに中佐の元に報告に行って欲しいわ……朝一でね。そうしたらきっと良く眠れるもの」
「馬鹿げてる」
「ね。言ってみただけ」
むしろ後々面倒になるからこれは流石に冗談。彼もそれは理解しているからこその返答なんだろうけど、それにしても馬鹿げてるだなんて。私が求めていることを忘れてやしないかと、傾げていた首を上げて横を見ると相変わらずの綺麗な顔。ああそういえばお化粧も落とさないと……なんて面倒なことを思い出させたのはそのいやに紅い唇だった。化粧で飾る必要のない美しさに対する嫉妬なのか、気付けば私の指は三好くんの唇をなぞっていた。
「あ……ごめんなさい」
ちらりと寄越された鋭い瞳に我に返って手をはなす。どうしてこんなことをしたのか、本当に嫉妬したのか自分でも良くわからなかった。
「欲しいですか?」
「え……」
「随分物欲しそうに触れるものだから」
笑いもせず呆れもせずに真顔で淡々と言う。物欲しそう、という部分に何だか物凄く居心地の悪さを感じた。
「も、もう寝る」
その場を離れたくて立ち上がった。瞬間、腕をぐいと強く引かれバランスを崩した体を抱き留められる。
「寝るじゃなくて逃げるでしょう?……駄目です」
体を支える腕をそのままゆっくり私の背中に回して三好くんは耳元で囁く。
「……何、駄目って」
「甘やかせと言ったのは君だ」
それに眠れないとも言いましたよね、とわざわざ指摘されて口ごもる。数分前の自分が恨めしいなんて後悔先に立たず。どうやら今日の私は中途半端どころか全く善点がないらしく、次第に近付いてくる三好くんの整った顔を避けることすら不可能だった。
はじめは音も無く触れた。啄む様な食む様な口付けに変わってもそれは同じで、私の知る彼とは大分異なる優しさにもどかしさすら感じる。だから舌が触れた時に彼の肩を抱いていた腕に力が籠ったのはきっと無意識なんかじゃない。少しずつ深さと激しさを増していったそれはいつしか、まるで恋人同士にしか交わすことは許されないのではと思える程甘美なものになっていた。
「っ……はぁ……」
「……お気に召した?」
とろりと唇が離れて息の上がる私に対して、少し目を細めただけで問う三好くんに悔しさを感じたのは恐らく最後に残されたほんの少しの私の自負心。
「……ねえ、私甘やかしてって言ったの」
「それで?」
「最後の台詞で台無し。……やり直してよ」
「……」
「やり直して」
「つくづく馬鹿ですね……愛してるとでも言えば良かったと?」
「貴方ならもっと気の効いた言葉が言えるでしょう?」
「……欲の深い女は好まれませんよ」
「知ってる」
だから今日だけ、今だけうんと甘やかしてよ。私だってこんなこと貴方にしか求めないんだから。そう全て言い終わる前にまた唇を塞がれて、再びそれに酔いしれる。けれど今度は触れた瞬間から脳が痺れそうな程に甘く激しくて、そんな蕩ける様な長い長い口付けのその後で彼が囁いたのは私なんかではとても思い付かないような甘ったるい台詞だった。それにはありがとう納得したわなんてつまらない言葉を返すことすら烏滸がましくて、けれどもそれ以上の返答を持ち合わせない私はただ強く抱き締め返すことしか出来なかった。