福本くんが天然だと言ったのは誰だったろうか。
朝の澄んだ空気の中割烹着姿の福本くんと並んで朝食の用意をしていると、まるで料亭の仕込みでもしている様な錯覚に陥る。普通こんな状況は夫婦みたいだとかもっと甘ったるい感情を抱くのかもしれないけれど、彼のあまりの手際の良さはどちらかと言えば前者を彷彿とさせるのだ。
「なあ、一つ聞きたいことがあるんだが」
「何?」
「三日前のことだ」
「うん」
「お前と神永が」
「うん」
「玄関前で抱き合ってキスしてたのは何でだ?」
手にしていた人数分の箸がばらばらと床に散らばる、散らばる。散らば……彼は今何と?
「みて、た、の」
「だから聞いてるんだが」
それはわかる。知らずにいることならそれについて聞くことはそもそも不可能だもの。けれども例え知り得たとしても面と向かって聞きにくいことってあるし、そして今の質問はまさにその類ではないのか。
「……」
「おい、手が止まってるぞ」
「あ、はい……」
屈んで下に散らばった箸をかき集めるけれど、正直頭の中はぐちゃぐちゃで心臓はどくどくと悪い意味で波打っている。あれを見られていた……なんて不覚な……というか単純に恥ずかしい。正直に言うとそれ以外の感情はまるで沸いてこない。箸を全て拾い上げて軽く洗いながら、頭の中では必死に誤魔化す言葉を探る。
「……あ、」
「何だ」
「あいさつ……」
「挨拶?」
「そう、挨拶みたいなものよ、あれはね、あ、挨拶、ただの」
「夜中にか?」
「よっ……なか、でも、お休みなさいとかおかえりなさい……とか……」
「ほう」
「お疲れ様、とか……ええと……」
「……そろそろ苦しくないか」
そろそろ、ではなくそもそも苦しい、本当に勘弁してほしい。大体あの夜神永くんをあんな状態にしたのは貴方を含め皆のせいであって、その成り行きでしてしまったのだと半ば自棄になってぶつけた。するとそうか、悪かったなと素直に謝るので別に謝られることじゃないけど……とこちらが申し訳なくなる。
「成程、挨拶か」
「……もうこの話終わりにしない?」
「ああ……そうしよう」
福本くんは手際良く動かしていたままに、私は止まっていた手をやっとまともに動かして作業を再開する。
「若宮」
「う、ん?」
名前を呼ばれ横を向いたその瞬間に、何かが唇に触れた。何か、が福本くんの唇だと気付いたのは数秒後。そしてその時にはもう既に彼の唇は離れていた。
「……な」
なに今の、という言葉が上手く出てこない。涼しい顔で料理を再開している福本くんを見上げ、ただ固まってしまう。
「挨拶なんだろう?」
いつもの調子でしれっと話す福本くん。なんだろう?と言われても、あれがただその場凌ぎの言い訳でしかなかったのは貴方だってわかっているくせに。
「何、の」
「そうだな……朝だしおはようで良いんじゃないか」
「……それならさっき言ったじゃない」
「それもそうだな」
これまたしれっと返されて、何だかひとり慌てている自分が馬鹿馬鹿しくなる。きっと福本くんにとって他人と唇を重ねることなんて、挨拶程の意味すらないのだ。
「おい」
「は、はい!?」
「手が止まってるぞ」
「あ、はい……」
彼にとってはきっと、私と口付けを交わすことより朝食の準備を効率良く進めることの方が重要なのだ。
「なあ」
「な、何?」
「明日からの挨拶はこっちの方が良いか?」
「遠慮させてください……」
こんなの天然の一言で片付けてたまるか。