目の前にいる実井くん……が実井くんではない。

「あら書生さん」
「これはどうも」

そちらは若宮さんでしたか、と付き合ってくれる書生さん……もとい実井くんはいつもよりかっちりと前髪を撫で付け普段はしない眼鏡を掛けている。度は入っていない筈だけれどその眼鏡姿が妙にしっくりくるのは、いつもその手に本を携えているせいかと思案した。

「一言言ってもいい?流石ねって」

背広の時に合わせるソフト帽の代わりに一般的な学生帽を手にしている。潜入先でそれを身に付けている姿を想像すると、金持ちの家に住み込みで勉学に励む学生という以外に形容のしようがない程──つまり“完璧”だった。

「疑われたら終わりですから」

ふふと口角を上げるこの笑い方は彼の自信の表れだ。疑われたら終わりだから“完璧”でいるわけではない、“完璧”であるから疑われるはずがない、なのだ。そしてそれは単なる自信ではなくて、実際に彼の纏う仮面とその下の素顔──まあそれすらも曖昧であるわけだけれど、とにかく二つの顔を結び付けられる者は少なくとも彼の潜入先に存在しないのは確実だった。

「今の貴方、きちんとお勉強に励んで世間のことなんてなーんにも知らない学生さんにしか見えない」

本当は誰よりもその腹の中に渦巻くものを持ち合わせているのにね、なんて口が避けても言えないけれど。

「これでも屋敷の女や宿の女中なんかには結構好かれてるんですけどね」
「ああ……わかるかも。母性本能をくすぐる感じ?かな」
「若宮に母性本能なんてあったんですか?」
「……」
「冗談ですよ」

わざとらしく小さく膨れて睨んでみせると実井くんは人指し指でつんと私の頬をつつく。ふしゅ、と何とも間抜けな音が響いてふふっと満足そうに笑う実井くんは多少外見が違ってもやっぱり実井くんだと思った。

「私はいつも通りの実井くんが好き」
「おや、もしかして今告白されました?」
「実井くんしか知らないからかもしれないけど、きっと貴方の方が優しくて男らしいんでしょう?」
「そう思います?」

童顔で柔らかな物腰の実井くんだけれど、意外と低い声やきっぱりとした物言いはその凛々しい本質を充分に感じさせる。こう見えて、は失礼なのかもしれないけれど、実井くんって機関員の中でもかなり男らしい方だと思う。
私の言葉にふむ、と少し考え込む素振りをしてみせていた実井くんは思い付いたように顔を上げる。

「試してみます?」
「え?」
「じゃあ……若宮さん」

若宮“さん”?試してみる、の意味すらまだ理解できていない内に普段と違う呼び方をされ見つめる先の実井くんは柔らかく微笑んでいる。

「は、はい」
「キスしても……いいですか?」
「えっ!?」
「駄目、ですか?」
「え、ええと、どうぞ」

急にどうして、何故?と考える前につい了承してしまって一瞬まずい、と思ったけれど、ぱっと表情を明るくした実井くんについ胸が高鳴ってしまう。そしてその表情を見て気付く、今目の前にいるのは実井くんではなく書生さんなのだと。実井くん……ではなく書生さんは私の手を優しく握り締める。ゆっくりと近付いてくる顔に覚悟を決めて目を閉じると、そっと唇が触れた。辿々しく軽く押し付けられた唇はすぐに離れて、うっすら目を開けると照れ臭そうに視線を泳がせる書生さんがいた。最早実井くんには見えない。……と思ったのも束の間、ふう、と一つ息を吐いたかと思えばおどおどした態度はどこへやら、書生さん?実井くん?は私に真っ直ぐ向き直った。

「どうでした?」

どうでしたと言われても考えが追い付かず、え、えっと、なんて生娘みたいな返事しか出来ない。そんな私をくすりと笑ってさてと、と呟き眼鏡を外して整えられた髪をくしゃりと乱すといつも見ている実井くんになる。

「今度は君の知ってる僕です」

言いながら私の肩に手を置くと顔を近付けてくる。嘘だ、こんな実井くんは知らない。そう思っても体は動かなくてただぎゅっと強く目を瞑った。
……いつまで待っても唇に感じる筈の衝撃がこない。ちらりと目を開けるとすぐ目の前に実井くんが実井くんとしてそこにいた。

「君の好きな実井くんは優しいんでしょ?無理矢理なんてしませんよ」

にっこり笑って尤もらしいことを言っているけれど、じゃあさっさと声ぐらい掛けてくれてもいいんじゃないかと思った。が、実井くんらしさで言えば特に問題はないことに気付く。

「ね、若宮。良いですか?」
「う、うん」
「じゃあ遠慮なく」

ぐっと一気に顔を寄せて唇が重なる。撫でるように触れただけの書生さんとは違って、はじめから舌を差し込むように開かれた唇にまんまと誘導されて舌を絡めとられる。激しくはないけれどいやらしく這うような動きに鼓動が速くなる。こんな実井くんは知らない。
ゆっくりと口内をなぞられて思わずんん、と漏れた私の声に唇を重ねたままふふと笑った実井くんは最後にぺろりと私の唇を舐めて顔を引いた。

「今のが“実井くん”のキスです。さあどっちが好きか聞かせてくれますか?」
「……」
「若宮?」

首を傾げて下から覗きこんでくる表情は悪戯に微笑んでいて、やっぱりこんな実井くんは知らないと思った。

「……意地悪な実井くんは、嫌い」
「へえ、それは残念」

口元に手を添えてくすくすと笑っているのを見ると残念だなんて絶対に思っていない。

「けどそれって、僕の質問の答えとしては不充分ですよね」

ほら、明らかに楽しんでいる。どちらのキスが良かったか、なんて同じ人物に聞かれることがこんなに恥ずかしいことだなんて知らなかった。それを認識している実井くんはきっと納得する答えを得るまでこの調子だ。急にキスだなんて何事かと思ったけれど、まさかこれが目的だったとでもいうのか。

「ほら、答えてくれるまで今日は寝かせませんよ」

わあなんて男らしい台詞を吐くのだろう、きっとそんなところが好きだった、ついさっきまでは。けれど今ではこれから訪れる長い夜に恐怖する気持ち以外に彼に対する感情なんてない。心底楽しそうにどこがどう良かったかも聞きたいですね、そう聞こえた気がする言葉はどうか空耳であってほしいと願った。


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