甘い香りがする。ふわりと風に乗って鼻先を擽るそれはあの人のものだとすぐに分かる。甘くて、でもそれだけではなく妖艶さも含む香りは離れていてもその人の存在を認識させる。正直苦手だ。というより、最近苦手になったのだ、正しくは。


「若宮」

不意に後ろから呼ばれぴくりと肩が揺れた。ゆっくり振り返るとにこにこと朗らかに笑う甘利くんがいる。

「顔。折角の美人が台無しだよ」
「……台無しにしてくれてるのは貴方だけどね」
「はは、言うねえ」

じととあからさまに睨んでみせてもそんなものは何でもないと声を上げる甘利くん。公園でのあの口付けの後、この人を見たら反射的に身構える様になってしまった。理由はその時の彼の言葉がそのまま、“今度は全員いる前で”。まさか本当に実行に移すつもりはないだろうと高を括っていたのだけれど、何だかあの日以来やけに絡まれる気がする。ただの自意識過剰なら良いのだけれど。

「何か私に御用があって?」
「用がないと声を掛けちゃいけないのか?そこに君がいたから、は理由にならないかい?」
「……さあ、どうかしら」

紳士的で優しい人、私にとってのこの人はそうだった。そして今も見事に紳士然としているのには変わりないけれど、それだけではないのだ、今の彼は。公園で唇が重なった瞬間、彼が普段身に付けている香水の甘い香りが帽子の壁に覆われて、頭から身体中を侵食する様に満ちていった。彼の香りに全身囚われてしまった様な、その時の感覚が今も離れない。

「好きなんだよ、君の顔」
「……それはどうもありがとう」
「今みたいに怒ってる顔も好きだよ。ただ俺に向けてくれるならやっぱり笑顔が良いんだ」
「そんな誰にでも言ってる様な言葉で流されたりしないから」

肩を竦めて力なく微笑む彼に、以前の私ならただ同じ様に笑ってみせたのだろうけれど今の状況ではそれは不可能だった。

「この間からやけに警戒してるよな。まさかあの時言ったこと本気にしてるのか?」
「……」

イエスと答えるのが何だか悔しくて言葉を返せないでいると、ふわりと空気が揺れて甘い香りが鼻を突いた。身を屈めた甘利くんに横から覗きこまれる。

「君が望むなら俺はいつだってやるよ?何なら今だって良い」
「……だっ、だめ!」

思わず反対側に仰け反ると甘利くんは口元を押さえてくくくと楽しそうに笑う。ああそうだこの人も所詮化け物、紳士なんかではない。

「いや、悪い。けどそういうところがいちいち可愛いんだな、やっぱり」
「……もう!良い加減にしてくれないと怒るわよ」
「もう怒ってるじゃないか?」
「……」
「違うかい?」
「……嫌いよ。貴方なんて嫌い」
「嫌い?俺のことが?」
「ええ」
「本当に?」
「嫌い」
「嘘だったらキスするよ」
「……嘘じゃないわ」
「へえ?」

ただでさえ近いところにある整った顔をぐっと寄せてくる甘利くんから目を背けたくなるけれど、そうしてみたところでこの状況には何の変化ももたらさない。それならばいっそ覚悟を決めて、彼の自負心による行為を甘んじて受け入れてしまった方がこの先怯えずに過ごしていけるのかもしれない。随分と後ろ向きなその迷いが行動となって表れる。ちらりと横目を左右に走らせて、空間の気配を読み取ろうとしたのはここでの訓練の賜物か、もしくは動物的本能だろうか。……とりあえず今ここにいるのは私たちを除いては三人、三好くんと波多野くんと神永くん。もしもその瞬間を見られたら、最高に面倒なことになりそうな最低の面子が揃っていることは理解した。

「……まさか君、今周りを確認したのか?」
「……言わないで」

当然の事ながら真横で依然私を見つめる彼には全てを理解されていて、改めて言葉にされるとこれ以上ないほど情けなくなった。甘利くんはふ、と息を漏らしたかと思うとくっくっくっと肩を揺らす。ああもう今日は彼に笑われてばかりで、恥ずかしい……どうして変な意地を張ってしまうのだろう。

「いや、君って人は本当に……何だかこう、見ていて飽きないよな」

言いながら尚も肩を震わせている彼にもう降参、と情けなく眉を下げてこちらも笑顔を浮かべる。これ以上張り合ったってきっともう何にもならないもの。甘利くんも漸く気がおさまった様で、さらりと普段通りの落ち着きはらった表情になった。

「ねえ若宮、もしかしたら君が勘違いしてるかもしれない部分を一つ正しておきたいんだけどさ」
「勘違い、って何よ」
「君が望むのなら、ね、いつだってやるよ。けどそれは君が嫌がるなら無理にしたりはしないってこと」
「……この間は確認すらしなかったくせに?」
「嘘だったらキスして良いよ」
「私からなんて絶対しないわよ」
「絶対、か?」
「絶対、よ」

強調して念を押すと甘利くんはにやりと口角を上げて、じゃあ先ずは君の気持ちを解かすことから始めないとねとやっぱり油断出来ない様なことを言うからまた笑ってしまった。そうしたら彼も笑顔になるから、まるで和やかなその雰囲気にもう私の気持ちなんてとうに解かされているんじゃないかと思ってしまう。

「あと一つ確認して良いか?」
「うん?」
「本当に俺のことは嫌いかい?」
「……そんなわけないじゃない」
「今度は嘘じゃない?」
「嘘じゃないわ」
「絶対に?」
「絶対に、よ」
「ならさっき俺が言ったこと、忘れてないよな」
「……良いわよ。嘘ついたのは私だもの」

先程の彼の言葉、勿論覚えている。貴方を嫌いと言ったこと、嘘だったらキスするなんて冗談みたいなことでも、彼に告げた通り嘘をついたのはあくまで自分の責任。それに、最早変に意地を張る理由もわからなくて、自分でも驚くけれど、すんなりと目を閉じた。そうすると、見えずとも甘ったるい香りが次第に強くなって、彼の顔が近付いてくるのがわかる。そして、それこそ蔓を伸ばすみたいに彼の唇が音もなく私に触れる。瞬間、げ、と波多野くんの声が後ろの方で聞こえた。

「……」

「……え、」
「君が欲しがってるのはそこな気がしたんだ」

甘利くんの言葉に目を開く。彼の唇がそっと触れたのは私のそこではなく閉じていた左の瞼で、思いがけない箇所への口付けに拍子抜けしてしまった。それでも彼の甘い香りが移ったその部分につい手が伸びて、触れられた唇の感触を確かめるように軽く撫でてみる。そしてそのまま目が合うと、ぱちりと右目を瞑りウインクを決める甘利くん。

「次に俺に嘘をついたらこっちかな」

そう言って自らの閉じた右目を指差す彼に思わず苦笑した。

「もう貴方に嘘は言えないわねぇ……」
「それなら俺が君に嘘をつくまでだ」
「私からはしないってば」
「絶対?」
「……皆の前では」

私の言葉に満足げに目を細めた甘利くんは、ちなみに俺はここしか受け付けないからと唇を指して爽やかに笑うのだった。


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