朝、目覚めてその足で向かう場所にはいつも同じ姿がある。前日の戻りがどれだけ遅くとも、一人だけ、毎朝変わらない割烹着の後ろ姿。見慣れた光景……ただ、いつも何気無く目にしているはずの姿が何故かその時は、やけにぎらぎらと沸き立っているように見えた。


「御機嫌はいかが」

毎日毎日同じ声の掛け方というのもつまらないなんて思ってそんなこと言ってみる。福本くんは「普通だ」と、普通ならもっと言い様があるような台詞を返してくれた。

「あら。丁寧に研いだのね」

ふと彼の手元を見れば、まな板の上で手際良く進められている作業の中で普段より鋭く尖った彼の愛用品が目に入った。

「切れ味が違う」

ぽそり呟いた福本くんは、感触を確かめるようにその背にすぅと人差し指を這わせる。

「鋭く光ってる感じね」
「ああ……」

相槌を打ちながら彼は手にしたその包丁を眼前まで持ち上げて、余程うまくいったのか、その作り込んだ鋭さを見つめるような仕草をしてみせた。

「なんだ、実は結構御機嫌だったの」
「……」

応えないかわりに、彼は持ち上げた包丁越しにちらとこちらに視線を寄越す。そうして目が合った瞬間、言葉を間違えたか、と思った。そもそもこの福本くんという人は口数が多くない。なので、会話中無言を放られればそれ以上は続かないことも珍しくはない、が、この時がいつもと違ったのは、彼の手先のその妖しい輝きが、私を見つめる彼の瞳の中の鈍い光にまで反射してどこか不気味な、厭な感覚までも押し付けてきたことだ。

「……福本くん」
「何故」
「え?」
「……お前は何故ここにいる?若宮」

あまりにも突然の問い掛けだった。突然の、突拍子もない問いに何と応えれば良いのか。この問いの意図はどこにあるのか──とにかく思考すべきか、思った時、既に福本くんは私に近付いてきていた。少しずつ、無言で、ただし目は逸らさずに、その手には相変わらず包丁が握られている。

「……どうして急に、そんなことを聞くの?」

なんとなく、後退りをするのは良くない気がした。距離の近くなった福本くんを改めて見つめ返すと、彼は口を開く。

「人を殺したいと思ったことは」
「ないわ」

一言応えると、彼は「そうか」と呟いて私の傍にあった食材に手を伸ばし、再びまな板の前に戻って作業を始めた。トン、トン、と小気味良く音を立てるそれが、二人きりの空間にいやに響く。胸を撫で下ろすまではいかないけれど、一瞬肩の力が抜けたことが自分でも理解できた。まさか彼の見せた“狂気”が演技ではなくて本物だとは思ってなどいないけれども、手に握られたその“凶器”は偽物にしては切れ味が良すぎる。
彼が今何を思って人数分の朝食を拵えているのかは定かではない。彼の手際が良すぎるのはいつものことだけれど、それにしても手伝おうという気にはなれなくて、作業を続ける彼に一番近い椅子に腰を下ろした。煙草を取り出して火を点けてみたけれど、果たして長話になるだろうか。

「それで、ええと。……そう、貴方は人を殺したくてここに来たの?福本くん」
「いや」
「そう。まあ、それはそうね。御法度だもの……」

“ならば何故?”次にはもうそうやって終わらせてしまって良いのか、だってそろそろ誰かがやって来そうだ。けれど、私がそうしようとするより早く、先に口を開いたのは彼だった。

「……誰にでもある欲求じゃないと知ったのは、物心がついてからだった」
「うん」
「知らない人間がそこいらを歩き回っている裏には、同じ数の欲求の犠牲があると思っていたよ」
「そう」
「だからある時出会った男に“殺すな”と言われた瞬間、その意味が理解出来なかった」
「へえ、それは。素敵な出会いだったのね」
「素敵だと?」

フ、と彼が微かに笑う。

「とっても素敵でしょ。ええと……、なら、貴方は人を殺さないためにここに来たということ?その、殺すな……死ぬな殺すなと、結城中佐に言われて感銘を受けた?」

言った後に、感銘と断定したのは誤りだったと思った。ここにいるのは、そんな素直な感情だけの人間ではないから……けれども福本くんの様子にこれといった変化は見られず、私の気にした部分は彼には特に重要ではなさそうだった。

「おかしな奴がいるものだと思った」
「うん」
「第一、何故この男は俺の前に現れたんだと、暫く考えてみたんだが……」
「わからなかったのね。それで、追えばいつかは何もかもがわかるかもって?」
「いや、そもそも他人を理解しようとする人間は、他人を殺そうとは思わないだろう」

話しながらも、福本くんの手はずっと作業を続けている。トントン、カチャカチャと、主に何かと何かが触れ合って生じるそれらは、人の肌に刃物を突き刺したとて得られるものでは決してない。

「……死ぬな、殺すなと言うわりに、今なら誰よりも上手く人間を殺せる気がするよ」

ぽつり呟いた福本くんの声はどこか柔らかくて、成程この気配を以てすれば対象は簡単に心を開いて彼を近付けることを許してしまうだろう。機関員としての今の彼には、その先の工程だって容易く出来てしまう技術がある。

「そう。なら私も簡単にはくたばらない自信はあるけど、貴方にだけは気をつけていた方が良いのね」
「……言っておくが、俺は誰かを殺したことはないぞ」
「当たり前でしょう。これからだって、ないのよ」
「なんだ。ハナから信じていないのか」
「うーん。信じるというか、もしも嘘ならば貴方もそんな作り話するってことが面白い気もするし、真実ならそれ以上に面白いかもねぇ」
「そうか」

彼の言葉を最後に会話が途切れた。そして私が二本目の煙草に火を点けた頃、起き出した機関員達が集ってきたことで私達二人きりの時間は終わった。それでも「おはよう」ってそれぞれに声を掛けながら、頭の中では福本くんと交わした会話が巡り続ける。
彼はきっと何気無く語り出しただけなのだろう。虚構に支配されたこの空間で、あの話が真実か嘘かどちらでも面白いと言った私の感性は事実であるし、ならば彼の語った物語もまた虚構であるとは言い切れない。ただしその真偽を問う必要もないこの機関は、彼には思いの外居心地の良い場所なのかも知れない。


 
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