目の前に曝されるのは一切の無駄が無い引き締まった肉体。それは先刻から今尚降り続く雨を表面に纏い艶めかしくて、何とも目のやり場に困る。いっそ如何わしい状況であれば開き直って直視も出来るけれども、生憎今はそんな場面ではない。
「……災難だったわね」
脳内に一瞬浮かんだ生々しい仮定を振り払うように、惜し気もなく肉体を曝しているその人──波多野くんに声を掛ける。彼が適当に脱ぎ捨てた背広を整えようと拾い上げると、雨水を吸った分それは思いの外重たかった。
「こればっかりはどうにもなんねえよ」
これ、とは現状ままのこと。訓練であれ任務であれ、与えられた役割に天候は関係無い。こんな冷たい雨の日に外に出ることを要求された彼を、内心で僅か気の毒に思った。
「……」
癖のない髪から小さな滴が滑り落ちる様を眺めて、いつだったか、彼とびしょ濡れになった日を思い出す。あの時揃ってそうなったのは天候のせいではなかったけれど、ああそれにそういえば、もっと前の時に彼と初めてまともに話した車中でも外は雨だった。水と彼と私とは何か、縁でもあるのだろうか──
「……水も滴る……」
「皆まで言えよ」
「いえ、結構」
「ほー」
女の前だというのに躊躇い無く半身を曝す彼はやはり余程自身の肉体に自信がお有りなのだろうか。……いえ、関係無いか。
「……早く着なさいよ。風邪なんて引いたらいけないし」
「風邪、ね。や、お前じゃないから」
「……」
墓穴を掘ったなと思った。己をコントロールするのはスパイにとって不可欠で体調管理なんて大前提であるのに、以前私はこれを怠ってしまった。当時この人が予想外に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたことは忘れられるわけもない。
「……その節はどうも」
改めて形式的に告げた謝意に目線すら合わせようともしない波多野くんは「どーいたしまして」と何の深みもない声色で答えながら、新しく用意されたシャツに腕を通す。
「おい」
「何?」
「これ。やってくんない」
そう言う彼の視線が示したのは袖口の釦だった。見たまま状況を理解したらそんなことかと殆ど反射的に「ああ、うん」と答えてしまったのだけれど、その時──何となく、妙な違和感を覚えた。けれども改めて断る理由になる程のものではないとすぐ側に近寄ると流れのまま彼は腕をこちらに差し出すので、一先ず利き手に近い彼の左側の腕に手をかけた。
「……なあ」
釦を留めるなんて分も要さない動作で、丁度左側を整えてさて右側もと移ろうとした時、口を開いたのは彼の方からだった。
「何よ」
「いつだっけ?お前が寝込んだのって」
……正直もう触れてほしくない話題だった。求められずとも体調管理など出来て当然の場でそうなった上、やむを得なかったとしても己以外の手を煩わせてしまうことになった後ろめたさは出来れば忘れてしまいたいものだった。それをわざわざ今掘り返してくるのは彼らしいと言えば、そうなのだけれど──
「……ええと、二十日くらい前だった、かな」
「そーだっけ」
「多分ね……」
それでも記憶を辿り、思い返して答える──と、……──あれ、──
──“彼らしい”?
“彼らしい”──とは、──
……ああそうか、そういうことか──つい今しがた生じた違和感の正体が──理解できてしまった。その瞬間、彼の袖口に触れる手の動きが止まる。世界の全てがぴたりと止まってしまったような、嫌な間──
「……今なら最後まで言えんだろ」
──嫌な間に、嫌に響く気がする彼の低い声。
距離が近い分、それを告げた音は大きくはない。主語のないこの台詞が指すのは、丁度彼が私を介抱してくれたあの時の会話だ。私が今思い出した自身の言葉──“今度は私が聞く番”だと言ったのを、彼は覚えていたと──そういうことだ。
「ほら、言えよ」
「……」
「答えてやるよ」
先程私が感じたのは違和感ではなく──予感だったのだ。袖口の釦を留めるなんて造作もないこと、彼がわざわざ私に要求する意味。であればこうなること、その予感──きっとどこかでわかっていた。
彼の方から切り出されなければこのまま、あやふやなままいつか忘れられるやり取りだったかもしれない。けれど彼が求めてきた、それならばこちらもちゃんと向き合うべきだと思った。音を発しようと開いた唇はどこか覚束ない。一度止めてしまった手は時間もそうなってしまったように動かないまま。……
「……波多野くん、は……、」
近すぎる距離に萎縮してしまいそうになる声を振り絞る。
「……貴方は私のこと……、……どう、思ってるの……」
彼自身の肉体に真正面から視界を塞がれているせいか、その慣れない距離に眼前の肌色が心なしか揺らぐ。あの時の風邪が丁度今になってぶり返したんじゃないかと、ならばその方がまだましだと感じてしまうくらい、今体内に籠る熱は何と呼べば良いのかわからない。
「……」
釦を留めてやるという行為が一つ救いで、私と彼の視線はずっと重ならないまま。
「……」
見つめ合わない分、何もわからない。彼が今どんな表情で私を見下ろすのか、私はどんな顔をして彼の声を待てば良いのか。……駄目だ、目眩がする。時間にすれば何秒と経っていない筈なのに、これ以上は耐えることが出来そうになくて、──
「……っ波多野く、っ「変な奴」
……へ、」
「変な奴だよな。お前」
「……」
……身構えていた分肩透かしを食らった気分だ。堪らず顔を向けた先の波多野くんのその返答に、それまでと別の意味で目眩がした。
「へ……、……っ誤魔化した!」
恥ずかしさとか、怒りとか虚しさとか散々込み上げてきたのが混ざりに混ざって、きっと今私の顔は真っ赤になってる。
「誤魔化してねえよ?そう思ってんだよ」
「……何それぇ……」
「お前の聞き方が悪い」
対して波多野くんはしれっと言葉を紡いでいつも通りの意地悪顔。
聞き方、聞き方?“どう思っているの”は間違っている?貴方みたいに“どちらか”をしっかり問えと?この状況で?──……
「……狡い」
「こんなのに狡いも何もあるかよ」
「……」
正論過ぎてぐうの音も出ない。けれど考えるより先に唇がそうやって紡いだのだ、二択を迫るのを拒んだのは、きっと私の中の何かがそうするのを恐れた結果だった。……こんなことを思ってしまう時点で、敵うわけがないのだ──勝ち負けではないけれど。むしろ勝負事ならば良かった。勝つか、負けるか。これも二つに一つ。そうして何だって単純な二択ならば、──
「──……」
「……若宮」
「っ、何?」
「良い加減寒いんだけど」
「あ、……ごめん」
彼の声で我に返るとまだ留められていない片方の釦を思い出して急いで留めてやる。「どーも」と、いつもの調子で告げられた何一つ込められていない声を聞いたら強張っていた全身から急激に力が抜けていった。
「……」
たった数秒前までの緊張感はもう微塵もなくて、カチカチと時計の秒針が刻む音に気付いて溜まっていた息を静かに一つ吐き出した。波多野くんはと言うと身を引いて胸元の釦を今度は自らの手で一つずつ留めていて、再び私達の間には沈黙が流れる。
「……」
再びの沈黙のその中で、彼の声に遮られた思考が蘇ってくる。
──“単純な二択”ならば。彼が私にしたように改めて二択を迫れば──彼もそのどちらかで答えてくれるのだろうか。殆ど無意識とはいえ一度は避けたその問いを考えてしまう、無音の空間──
────
「……ねえ、」
許されるだろうか。彼は、答えてくれるだろうか、──
「……何だよ」
ちらり、彼の目線が私を捉えて──……
「……」
────
あと、少し。喉元まで沸き上がる感情を、あとは声に出すだけ──
──
────
「……お茶、しましょう?風邪が冗談じゃなくなるわよ」
────
……我ながら。
上手く笑って言えたと思う。笑顔を見せるのは苦手じゃない。誤魔化すのは……出来ているのか、自分では良くわからないけれど──それでも、波多野くんは「ん」と私に答えたのだった。
問おうとして、だけれどやっぱり止めた。伏せた感情を持て余して見つめ合ったのは数秒にも満たなかった。私が欲した為に生まれたその空白に彼が何かを見出す筈もないのだけれど、それでも──言葉無く、視線だけ交わした瞬間に──
「止めておけ」
──と。そう言われている気がした。
いつからか続いている波多野くんとの意味なんて無いこのやり取り。それでも、好きか嫌いかを相手に問うことに意味を持たせるなら、という話。勝ち負けとして白黒つけるだけならそれ以上に楽なことはない。私が波多野くんに抱く好きも、彼が私に対して抱くそのどちらでも勝ち負けとして良いのなら口先だけで終わる。本来相反する筈の“好き”も“嫌い”も、その音は違っても彼から私に向けられるものならば意味などないのだから結局は変わらない。なのに何を恐れるのか、これではまるで意味を求めている浅はかな恋慕じゃないか──そんなものではない筈だから。ならば──必要ないじゃない。
……さて、お茶にしようという私の誘いに乗ってくれた彼の今の気分は何だろうか。珈琲か、紅茶か。温まるというのならアルコールを混ぜても良いかもしれない──つまるところ、何だって構わないのだ。いまだ胸につかえていても、声にすらならなかった問い掛けなど核心ではないと──そうやって流し込んでしまえるのならば。どれでも、何だって変わらないのだから。
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