夕立があった。時期的なそれは空は明るいままに数分間だけやたらと激しく降りしきる。
その時分私は協會内にいたものだから、思いがけず濡れて嫌な気になることもなくただぼうっと大きな粒の地面に叩き付ける様を談話室から眺めていた。少しだけ開いた窓の隙間から冷やされた空気が入り込んで来て、羽織る薄手の肩掛けがはらり滑り落ちるのを時折直したりして。
一頻りばたばたと騒がしく音を立てた後何事もなかったかのように広がるのは嘘の様な静寂。夕時だというのに、ほんの数分のそれのせいで先刻まで賑わっていた目先の通りからは人的な気配は消えていて、自動車の機械音も人の話し声もさっぱりと聞こえないかわりに耳に届くのはすぐそこの道脇でかさかさ揺れる緑葉の擦れる音だったり、更に意識を遠く広げれば何処かの飼い犬かもしくは野良犬かが吠える声も微かに響いてくる。何者かによって造られる普段の雰囲気を一掃したみたいなそんな空気。自然である、と言って良いのか──兎角、人的な音を一切排除した世界とはこうも真っ直ぐな音なのかと感じた。……けれど、それはどうも長く保たれるものでもないらしい。静かな世界に混じるのはまだ気配のみで──そもそも足音を立てない様歩いてくるのは最早癖みたいなものか──けれどもその存在は確実に近付いて来る。がちゃり、ドアノブが回る音は今ならばとても人工的に思えた。


「ああ。お前ね」
「何それ」

入ってくるなり意味深……でもない、真意としては恐らく真逆の特に意味もないこと言って、神永くんは椅子は引かずにテーブルに浅く腰掛けた。

「まあ私は貴方で嬉しいけどね」
「ん、それは俺だって同じだよ?」

うん、そういうのが貴方で嬉しいのよ。は、わざわざ言わないで良いにしても、テーブルに腰をつく神永くんを改めて意識して見るとなんとまあ脚の長いこと。何をやっても様になる筈だ──とか、やっぱり彼を喜ばせる様なことしか浮かんでこない。
窓からこちらに向く風はいまだ雨特有の匂いを残していてこの場の空気を妙に重苦しく暗く感じさせる。なのに、見やる先の神永くんの髪先を柔らかく揺らしてそれがまた彼の精悍な顔付きを引き立てるから小憎らしくて。首から下を覆う薄いこの肩掛けを片方だけ手放して垂らしたら、軽快でないこんな微風でも彼の元まで届けてくれやしないのだろうか、とか他愛の無いことを考えてそうしたら何だか、この湿っぽい空気がいよいよ煩わしく思えて、──

「ね。踊ろう神永くん」


まどろこしい空気を振り払うみたいに立ち上がってみて、薄く肩を覆っていた布を宙に放る。時は止まらないから一瞬だけそれはふわりと舞うと、この世の理通り床の上を滑る。それを掬い上げてまた空気を纏わせれば頼り無くゆらゆらと振れては舞い落ちて、今度はそれが床に着く前に腕に絡めてその場で回ってみせた。

「ほら」

カツカツとヒールを打って合図したら目線を流す先の彼と目が合って、視界の端にその姿を捉えられなくなるまで思いきり勿体つけて見つめる、と。

「……ぶ、」

軸を保つ体が一回転して交わる視線が解けたと同時に吹き出した神永くん。そうして次第に漏れる声は小気味良く、くつくつと喉を鳴らしながら軽く握る拳を口元に添える表情は普段の締まりのあるそれより緊張感がなくて。

「何よ。そんなに笑わないで?」
「いや、や……や。本当お前さ?……好きだよなあ」

丁度先程の雨みたいに一頻り肩を揺らした神永くんに真向かうように正面に振り向くとくしゃり歪んでいた目元はもう落ち着いて、それでも尚緩やかな笑みを浮かべる彼はスーツのポケットを探り煙草を取り出して、薄笑いのその唇に咥えた。そのままマッチを擦る動作の神永くんを眺めながら再びひらひらと肩掛けを高く遊ばせたら、その薄い色彩越しに赤い炎が彼の咥える煙草の先に灯るのが見える。薄布に描かれた色とりどりの花模様の向こうの神永くんはまるで蜃気楼に消え入るみたいにぼんやりして、布一枚が隔てるよりもっと濃い霧をあの夕立は連れてきたんじゃないかって疑いそうになるのだけれど──何にせよ、湿った空気と室内を紅く染める色はやっぱり紛れもなくあの激しい現象を物語っていてそれはどこか、この空間が現実的ではないという気にさえさせる。

「そりゃあだって、楽しいじゃない」

難解な講義に苛酷な訓練、そして何より一筋縄ではいかない任務。そんな現実の中の非現実。

「ああ……違うよ?お前は本当に俺のこと好きだよなって」

ふわりと舞った薄布が翻って目の前が開けると、彼の強気な瞳が吐かれたばかりの紫煙の向こうで細められる。硬く輝く石みたいに耽美で強い──神永くんだけが持つ彩。

「……だから、違わないでしょう?貴方といると楽しいのよ」

彼の吐いた紫煙を巻き込もうと薄布を纏う腕を空間に解くと、そうはさせまいと言わんばかりに忽ちその灰色は立ち上ぼり直ぐにその姿をくらました。まるで彼の意思を示すように。

「誘ってる?」
「残念ながらこの後は疲れて眠ってしまう予定なの」
「そりゃあ、本当な。残念だ」
「ごめんね」

くるりと回って背中越しに聞いた神永くんの「良いよ」という声は相変わらずひらひら舞う薄布に巻き込まれる。それでも彼は一緒に踊ってはくれないのだけど、私の気のままに放られる薄布の舞うのが止むその時までずっとそこに居て、ただこちらを見つめていた。


 
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