食欲がないと言ったのは事実だし、事実といえば波多野くんが作って持ってきてくれたものだから食べる気になったというのも出任せなんかではない。何より、ひとり枕に伏せていた数分前よりこうして彼と普段と変わらない調子で話している方が随分と楽である気がする。病は気から、とはまさにこういうことなんだろうか。
……なのに、いざ食を進めようとすると、何だか……

「……ねえ」
「まだ何かあんの」
「……あんまりじっと見ないでくれない?」

真横から注がれる波多野くんの視線が何となく歯痒いというかくすぐったいというか、とにかく無性に気になって妙に緊張してしまう。つい先程には自分から食べさせてくれやしないかなんて宣ったというのに、何と面倒、何と手の掛かる病人だろう、やっぱりさっさと治してしまわなくては。震えこそしないけれど拭いきれない居たたまれなさは残すまま、小鍋の中身を薄く掬って口に含んだ。

「……」
「……」

咀嚼しているのだから無言になるのは当然だし、またその最中に話し掛けられても困るのだけどもやっぱりどうにも覚束無いこの空気が気まずい。……以前より打ち解けたと思っても、私はまだこの人をどこかで苦手だと感じていたりするのだろうか。一度抱いてしまった苦手という感情、は、どう転じるのが自然で一般的なのかしら──とか、考えるのはおかしな話か。そもそも一般的なんて通用する場所ではない、大前提だ。
回らない頭で不相応な思案を繰り返すのは良い加減に止めるとして、いつもより窮屈な思いで漸く一口目を飲み込んだ。

「……」
「……」
「……うん、あの、うん。良い塩梅です」

……この機関では他国の言語を様々教え込まれるわけだけど、その度に密かに実感するのは実は日本語の難しさだったりする。母国語として親しみがあるからこそ扱いには慣れていて当然だし、いざ与えられた任務となれば幾らでも方便を並べられるのに、対話の相手が只者ではない化け物となるとその都度正しい選択が出来ているのかどうにも不明瞭になることがある。……まあ、そんなふうに感じるのは未成熟な私だけである筈だし、少なくとも今横にいる彼には全く理解出来ない思考には違いない。

「何だそれ」

これだもの、人が何とか絞り出した精一杯の賛辞に対して何の感情もこもらない台詞を、得意顔を浮かべるでもなく至って真顔で当て付ける。……と、言ってもそれだから“らしい”のだけれど。

「いえ、うん。ありがとう」

そんな波多野くんであるからこちらも素直に謝辞を述べたくなるわけで、というより真っ直ぐに言えた感謝は無表情ながらも彼がまだここにいてくれるから、なのかもしれない。
福本くんが腕を振るうのと変わらないであろう出来だというのに、三口程口にしたら何だか満たされてしまって小鍋の中で匙を少しばかり遊ばせる。こんなことして、三好くんなら舌打ちして行儀が悪いと蔑んだ目を向けてきそうだ。
脚の短い椅子に合わせ前のめりになって、膝に片肘を立てて頬杖つく波多野くんの表情は普段と違わず力の抜けたまま。もしも、これが心配そうに眉を下げていたりなんかしたらどうすれば良いのか戸惑ってしまいそうだ。……まあ、こんな仮定は結局杞憂ですらない、なら私の願望かしら。ああ、やっぱり熱のせいか。
──“いつもと同じ彼”そう思えば、あれこの感覚はひどく曖昧じゃないかとふと冷静になって、というのも“いつもと同じ”とは一体いつからの彼であるのだろうって、何よりそうしたら、自然と記憶が行き詰まるのはあの雨の日、車内で気まずかった時のこと。

「……ねえ」
「何」
「昔話、っていう程昔のことでもないんだけど」
「あ?」
「少し前の、本当に少しだけ前の雨の日よ。貴方のこと好きか嫌いかって聞かれて私、苦手って答えたでしょう」
「……そうだっけ?覚えてねえや」
「好き、か、嫌い、のどちらかでちゃんと答えるのが怖かったのね、……好き、とは言えなかったから」
「……そー」
「でもね、今ならちゃんと答えられるから、ね?もう一度聞き直して」

かちゃかちゃと匙を鳴らしていた手を止めて彼を見つめると静寂だけの空間になって、それはまるで緊張感みたいな圧迫感みたいな、とにかく自分から切り出しておいておかしな話なんだけれど──けど、それでも先刻までの気まずさとは違う。互いが、というよりきっかけはあの時の彼が与えてくれた。それで向き合うことが出来て、そうして、“今”だ。“今”だから、あの時より以前とは違うから。

「……」
「ね」
「……“なあ、若宮ってさ。俺のこと好きか嫌いか、どっち?”」

……改めて耳にすると何とまあ感情的で、スパイの集うこの場にどうあっても不要である様な、彼は一体何を思ってあの時こう言ったのだろうか。能力を持て余し過ぎる故の他愛のないお遊びか、もしくはそれ以下の無意味な気紛れか──とか、そんなことは一先ず置いておくとして──ああ、やっぱり。感心してしまう。流石だ、あの時と一言一句違わない。唐突に、まさに貴方はそう言ったのだ。

「好きよ……貴方のこと、今ではとても好きになった」
「馬鹿。……やめろ」
「……じゃあ、今度は私が聞き返す番ね?」
「やめろって……」
「……、波多野くん、は、……っ!」

波多野くんが溜め息交じりに制するのも構わずに続けようとした言葉は全く違う音になって現れた。あ、そういえば私、風邪を引いているんだった。
抑えきれなかったくしゃみに鼻を啜って涙目になった目を擦ると、ふはっと波多野くんが軽快に笑う。

「な。とっとと治せってことだ」
「なら……そういうことにしておく」
「抜かせ」
「……治ったら真っ先に聞きに行くから考えておいて、ね?」
「阿呆。考えるまでもねえ」

波多野くんが即答したのを受けて、考えるまでもない感情として私に向けている想いが彼の中にあるのならそれだけで、というのはあまりに安易だろうか──いえ、たとえ安易で単純で幼稚であるとしても、だ。

「……ね、あのね」
「んだよ」
「ありがとう」

相変わらず真っ直ぐな視線はどことなく痛痒くて、改めてその目を見つめ直すことは出来ずにまた視線を外す。けど、言葉にするならこれだって、ちゃんと伝えようとそう思ったから、少しだけ中身の減った小鍋に視線を落として呟いた。そうしたら、沈黙とも呼べない一瞬の間の後にきしりと重みが揺れる音が鳴る。あ、そうか波多野くんだ、そうか。思えば今日はまだ、彼のあの格好を見ていなかった。音につられて彼を見ると、やっぱり。頭の後ろで腕を組むあれ、あのお決まりのポーズを決めていた。

「もう聞いたっての」

横柄っぽく重心を後ろに傾けた彼に合わせてぎぃっとまた椅子が音を立てる。呆れながら深く息を吐く音を耳が捉えても、ああやっぱりあの時がなければこんな声聞けなかったんじゃないかって、何度だって思い出す。暗い車中に雨の音、やたらと長く感じた時の流れも、投げ掛けられた真っ直ぐな感情に戸惑いつつも僅かに振れた感情も。きっかけの時はいつだって、鮮明な記憶として甦ってくる。
そうして、一度のきっかけで壁を越えてしまえば何度だって伝えたくなる。愚直な感情はスパイとして不要であるのかも知れないけれど、女は同じ様になれないというのならこのままで構わないでしょう?いくら貴方が完璧だとしても、だからと言って同じくを求め返す様な人でもないのだ。
料理が出来て当たり前、過去に発した何気無い言葉を一音も違わず繰り返すことが出来るのも当たり前。加えて、愚かにも風邪なんぞで体調を崩した私に“優しく”接してくれるのも当たり前、になったのはほんの数週間前のこと。
あの雨の日の彼の問い。たとえばそれはただの気紛れで、特に深い意味などなかったのかもしれない。あの時がなければ今彼はこうして私に接してくれなかったのか。……とか、そんなことはまあ、やっぱり考えるだけ無駄なことか。今あるものとは違う関係なんて、少なくとも望んだりしていないもの。円滑にここで過ごしていけるのならばそれで充分、けれどたまには化け物としての完全無欠な顔の奥のあくまで対等な、人、としての触れ合いが出来るなら、それがまるで下らない馴れ合いみたいだとしても、交わした会話や振れる感情は確かな記憶として残る。そうして様々積み重ねていく先に得る彼等との関係を楽しめるのが、唯一人間である私の特権と思えば、ほらやっぱり充分だ。今だって、病身の私を見つめる彼の瞳はこの身を見下すものではなく、まあ純粋に心配してくれていると言い切るのは自信がないけれど──それでも、出来過ぎと言って余りある現状だ。ならばやっぱり気紛れだって何だって、構わないのよ。
彼のこと、たとえまだ苦手だと無意識に隔てているとして、ならば私はそれをどうしたいというのか。そもそもどうにかしたいのか、自分でも探るべきが正しいのかすらわからない。こればかりは熱のせいではない、ましてや日本語の難しさのせいでもない。人として、相手が化け物であれ何であれ、一対一で向き合うのならば感情抜きでは有り得ない。化け物と呼ばれても、それは感情を捨て去れるから形容されるものではない。少なくともこの人は、たとえ奥深くに仕舞い込んでいたって人としてのそれを保ち続けられるからこそ強くあるのだと、こればかりは私の勝手な思い込みと否定されようものなら、それを私が否定してやるわ。


 
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