全身が怠い。血の気の全て引いたような悪寒と、視界がぐらぐらと不安定に歪む感覚。そのくせ表層は普段よりはっきりと熱を主張してくるのは単純に風邪の症状だけれども、滅多にそんなものにはかからない私の体は一度そうなってしまえば完治までは生憎と期間を要するらしく、厄介なことこの上ない。


「若宮」

自室の扉が開かれたのと同時に呼び掛けてきたのは波多野くんだった。一言で表すならば同僚、とでも言うべきかしら、とにかく友人や、まして血縁でもない相手にこんな姿を晒すのははしたないと自覚があるし、何よりこの人には何を言われるかわかったものではない。……とか、頭の片隅に浮かびはするけれどだからと言って虚勢を張れる程の体力すら今の私にはなかった。

「起きてるか。生きてるか?」
「……何とか」

うつ伏せたままぎりぎりで振り絞る声は押し付けた枕に吸い込まれる。ただでさえ息苦しいけれど、今はこうして下向きに俯せているのが何よりも楽なのだ。

「で、どうなの」
「どうもこうも……つらいわよ、ただひたすら」
「あ、そ」

特に労ってくれるでもなく、それこそ与えられた任務をこなすみたいに坦々と受け答えるのが今は有り難い。無理に顔を上げて笑顔を向ける必要すらないのは今でこそ、彼でこそと言うべきだろうか。
そして、それだから私が彼の目的を認識したのはベッドの傍らの台に盆が置かれる音と、あと時間帯。それにまあ、用も無しに波多野くんがただ私を見舞ってくれる気がしないというのも、思えばあるのかも知れない。


「……食べたくない……」

枕に顔を押し当てたまま、運んできてくれた食事に目も向けずに告げる。「持ってきてやったぞ」とか「食えるか」とか恩着せがましいことを言ってこないのは、やっぱり救いだ。

「ならどうやって治すんだよ?ああ、納得できたら俺が食ってやるよ」
「……」
「……」
「……」
「おい」
「……」
「……」
「……いつかは治るでしょ」
「良し、やっぱお前が食え」

……こう言ってくれるのはいつもの意地悪とは違うのだから本当は素直に応じたいのだけれど、まさにこの純粋な筈の気遣いが今は不要だと感じるそのものだから居たたまれない。

「……だって……今は、食べ物見たくない……」
「……末期だな」

そうか末期なのか。彼等程ではなくとも厳しい訓練を受けてきたとそれなりの自負があって、それらに比べれば自業自得の高熱なんてどうということもないとか思いつつ耐えるしか出来ないのは、末期だからか。ああ、そうか。

「……なら私このまま死ぬのかしら……」
「馬鹿じゃねえの」
「……」

末期のせいで馬鹿になっているのか、それとも馬鹿だからここまで拗らせてしまっているのかも不明なわけで……ああ、どうだって良すぎる思考だ。

「……」

枕に埋める顔を少しだけ上げてすぐ横の気配に目を向けてみる。と、真っ直ぐこちらに注がれる視線と交錯した。今までは声だけで認識していた波多野くんの姿を今日はじめてこの目に捉えたら、彼はむすっと私を見下ろしていて、その状況を理解した瞬間から互いに無言、暫しの沈黙が流れた。

「……」
「……」
「……」
「……はあ、」

結局、折れたのはこちら。怠い体を布団から這い出して上半身を起こした。

「……食べる……食べたくないけど」
「ん」
「……」
「何」
「……んー……」

ようやく体を起こした私に相槌を打ちながら、化粧台に備え付けの椅子を引っ張ってきてすぐ横に居座る波多野くんを改めて見つめたら、何と言うか、いやむしろ何とも言えない妙な気分になる。熱のせいなのかもしれないし、なんならぼうっとどこか締まりのないこの空気感自体が実は夢の中だったりしないだろうか。
傍らの波多野くんを捉える視界の隅、台の上に置かれる盆の上の小鍋から、微かに白い湯気が立っているのを見ると福本くんの割烹着姿を思い出すのは最早条件反射で、彼の作る料理の具合を思い出したりして……と、いうのも今は食欲が無い故の虚しすぎる先伸ばし案に他ならない。

「……福本くんの御飯って美味しいわよね」
「そりゃ悪かったな」
「え?」
「それ作ったの俺だから」
「え」
「何だよその反応?」
「……え!?」

思いがけず少し大きな声を上げてしまった反動で若干目眩のする感覚に襲われた私を恨めしそうに見つめる波多野くん。これはいつも通り、なのだけれど……

「何、別におかしくないだろ」
「おかしい……波多野くんがおかしい」
「……」
「貴方も熱があるんじゃない……?きっと私よりも高い……」
「……お前本当に性格悪いな」
「だって、」

だって考えもしなかった、この人が調理場に立って腕捲りをして粥を拵えるなんて、それも私の為に、為に?あれ、私の為とは?……ああ、浮かされている。熱、とは本当に、なんと忌々しい……が。

「……何だか無性に食べたくなってきた」
「あ?」
「貴方が作ってくれたなら」
「……どういう風の吹き回し」
「吹き回してるんじゃなくて実際風邪なんだもの……弱ってるの、見てわからない?」
「……」
「な、何よぉ……」

じぃっと恨めしくその瞳を覗き込んでみる。と、波多野くんは押し黙って何も答えずいるものだからついたじろいでしまった。そして、そのわりに真っ直ぐにこちらに向けられる視線は相変わらずだからまるで緊迫感の様な、決して良いとは言えない感覚が私の気持ちを圧迫して、……けれどもそれはほんの一瞬のことだった。

「……ふ、」

嫌な感覚を振り払った声を上げたのは彼の方。見つめ合う視線はそのままで、口角だけ緩やかに角度を変えたと思ったら、彼の唇から漏れたのは存外穏やかな笑い声だった。いえ、笑い声と言えるのか、はっきりとした自信はない程の曖昧な音だったけれど、表情からすればやっぱり笑っていると言う他なくて。てっきり、私がしてみせている以上に恨めしい目付きを向けてくると思っていたのに。

「わかんねえよ」

笑んだままふいと視線を逸らしたかと思えばくつくつと肩を揺らすものだから、その捉えどころの無い返しに何だか私まで気が抜けて、なあんだやっぱり今って夢の中なんじゃないんだろうか。

「ま、とにかく食うなら食え」

……しかしながらてきぱきと促す口調で台上の盆を見やる波多野くんはまあ夢にしては私の知る彼と寸分の違いもなくて、良い加減に空論は放るべきか。
彼に倣って私も傍らに置かれた盆をちらと横目で捉えて、けれどもまだ手を付けることはせずにもう一度波多野くんを見つめてみる。

「……食べる、けど」
「けど何」
「食べさせてはくれないの?」
「あぁ?」
「火傷しちゃうかも」
「風邪に火傷に忙しいなお前……」
「良いじゃない、ただの口実なんだから」
「あそ……」

呆れを通り越したとでも言わんばかり、げんなりと瞳を濁らせてみたりして、やっぱりこれ以上は甘やかしてはくれないらしい。ならばとここは私も潔く諦めて、いまだ微かに湯気を立てる彼作の白粥の乗った盆を膝上に引き寄せ自ら匙を手に取った。


 
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