「若宮」
不意に呼ばれ振り向くと同時に、両肩にやんわりと鈍く重圧が掛けられる。この身に寄り掛かってきた田崎くんの頬が私のこめかみの辺りに擦り付けられるとそこから伝わるのは不自然な熱さと、アルコール特有のつんとした匂い。
「……酔った?それとも酔わされた?」
「どちらとも言える、かな」
受け答えの曖昧さは普段通りで、そもそも本当に酔っ払って潰れるところまで理性を放ること、はこの人含め機関の人間にはきっと不可能な話だ。くたりと凭れ掛かる田崎くんの腕を退けてその熱を遠ざけ見上げると、にこにこと朗らかな笑顔の彼と目が合う。
「男前は酔っ払っても男前ね」
「君もね。酔っ払いから見ても美人は美人だ」
軽々しく宣う田崎くんの目元は頬紅を差したみたいに赤く染まっていて、いつもの凛々しい目付きの印象をぼんやりと薄めていた。
「歩いてここまで来たのなら部屋にだって戻れるでしょう?」
介抱してやったって構わないのだけれど、魔が差したというのか、単に意地悪でそう言ってやると田崎くんはにっこり、軽い調子で多分ね。なんて笑う。
「じゃあ何をしに来たの」
「うん。既成事実を作ろうかなって」
はて、既成事実とは。また突拍子もない、思うけれども彼のお遊びの始まりは大抵こんな感じで急に投げて寄越されるというのは最早理解しているつもり。
「何、どんな、どうやって」
「今なら君とそんな風になれる気がしてさ。方法は何だって構わないんだけどね」
「何、私を抱くの?それとも抱かれたいの」
「どちらも、は叶うかな?」
相変わらずへらりと薄っぺらく繕われた表情で吐き出す言葉も果たしてどこまで本気なのか。理解に難くてだからと言って考えを巡らせる気にもならないわけだけれど、その感情を抱かせてしまうのすらやっぱり普段通りの彼らしいと言ってしまえばそれまでだ。
「どちらも叶わないわねえ……」
のらりくらりと言葉を紡ぐ田崎くんにはこちらも同じように答えてやって、そうしたら、ほらやっぱり満足気な顔。
「何なら叶うのかな」
薄く柔く、明らかに自分より力の無い対象を諭す様な笑顔で、けれども言葉では求める。全てが計算済みの、それこそ既成品を手にするみたいに導かれる手筈通りの流れは狂わせる気も起こさせない。
「君の何を俺に与えてくれる?」
改めて正面に向き合う田崎くんがずいと身を乗り出したら一気に距離がなくなって、目の前に突き詰められた彼の顔。そしてこうなれば、赤みが差していてもその目は鋭さを宿しているし、へらへらしていたって妖しく口角が上がっているのはやはり彼がはっきりと化け物である証明。……なのだけれど、実を言うと最近の私にはどうも化け物としての彼より先に、その中に押し隠している筈の一人の人間としての顔の方が色濃く浮かんで見える。以前の出来事から田崎くんのことを知りたくて近付いて、多少は理解を深められたと思えばその姿はやっぱりどこか曖昧なまま。けれどもその様こそまさに彼であると言われれば納得出来てしまう程これ以上を考えさせないのはつまり、どんな有り様でいたって結局田崎くんは田崎くんなのだということだろうか。
「何もやらないわ」
ならば答えは決まっているし、遊びの域を出ないやり取りで構わないのも結局は彼の思惑通りなのだと思う。そんな無駄ですらない無意味なら、何をくれてやることもない。
「私のものは何でも私だけのものよ」
この人が化け物でも人でも、田崎くん、であるなら今私が差し出すものなどないし本当に手にするつもりならこんな回りくどい会話すら必要ないんじゃないか。少なくとも今の私達ならばって、私ですら考え及ぶ選択に果たして彼が満足するのかはまた別だけれど。
「だよね」
やんわりと返される笑みは確認と、これ以上は不毛でもう充分だとも。少なくとも間違った選択肢を踏んだわけではないようなので、ここからは答え合わせのようなものだ。
「田崎くんの言う既成事実って何なの」
「何だろうな……そこだけ拾われると、案外言葉にはしにくいね」
「なら計算は狂った?」
「うん……いや、そうでもないな。少なくともこの先君に触れる理由にはなったろ?」
あんな会話で了承を得たつもりなのか、何よりも既に随分と好きに触れているくせに。田崎くんだわ、この人はやっぱり。
「それ、ただの口実ってだけじゃないの」
「充分だよ」
「そう。欲が無いのね」
「我慢なら得意なんだ」
相変わらずぺらぺらと良く繕う唇。厳しい訓練に耐えいずれは真っ暗な孤独の闇にその身を潜める為に、我慢というのは必要でまた必然であるのかもしれない。それでも毎度のことながら思う。我慢が得意であるのは本当で、けれどもそう言ってみせるのはきっと、全くの強がりだ。苦手を得意にしてみせる、それだって全ては自負心で、ああ、ならばやはりこの田崎くんとは化け物か。そのくせ気紛れに人間の顔を覗かせるのは果たして彼の本音か建前か、どちらであるのかしら。それを知りたい気もするし、知らないままでいたい気もするのは私の中の人間の部分か、それとも彼らのようになりたいと願う化け物じみた欲なのかは、私自身良くわからない理解し難い感情なのだ。
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