「なあ、逃げんなよ」


……冷えた声が耳の奥に響いてぞっとした。逃げるな、言われる前に私だって逃げたくはない。けれどそう思ってもどうしろと言うのよ?無言で睨みつけると波多野くんはにやりと口元を歪めて身を引いた。

「さあ、そろそろ帰ろうか?若宮さん」

立ち上がり片手を差し出すのを睨んだまま自分の手を重ねる、と、くるりと器用にそれを返して行きの道を歩いてきた時と同じ様に腕を組まされた。状況は等しくとも、正直心持ちは同じとは言い難くて行き場のない苦々しさを感じながら店を後にした。


「さて、そういえば下着を新調したいと言っていなかったかい?」
「……もう結構です」
「そうか、そりゃ良かった」

相変わらず軽い語調で話す波多野くんに、暫くこんな調子が続くのかと頭を抱えたくなる。絡んだ腕もどうにも重苦しく感じて振り払いたいぐらいだ。力なくはあ、とつい溜め息を漏らせばおやおやどうしたね?とからかう彼は心底楽しそう。

「……私勘違いしてたのね」
「あ?何が」
「貴方のこと、もう知ったつもりになってたのよ」
「……ふーん?」
「目付きとか言葉遣いとかあと何より意地が悪いけど本当は優しいんだって、そう思ってたわ」
「喧嘩売ってんだろお前」

低い声を発する波多野くんにふるふると首を振って言葉を続ける。

「好きになってたんだわ、貴方を」
「何?冗談だろ?」
「本当よ」

勿論そうは言っても他の機関員に対するそれと変わりない感情であって、ただ彼には元々それすらなかったのだからあまりに大きな感情だ。

「貴方のこと、好きになってたんだわ」
「……」
「……でも」
「何だよ?」
「例えどれだけ好きになっても……好きに扱われるのは御免よ」

化け物相手に対等だなんてそこまで自惚れてはいない。可笑しなことに、近くで見れば見る程彼等のことは遠くに感じる。そんな日々の中で思い上がれる程私は出来が良くないし、またそうあってしまったら最早ここにいる意味すらきっと失われる。だから必死に追いかけて、自らの居場所を求めるのだ。つまりはそんな自分が彼等に背を向けて逃げ出すだなんて、ただ自らの首を絞めて窮屈になるだけ。

「……ならどうすんの」

すっかり普段通りのどこか間延びした声で問う彼を見上げれば、きちんと被った帽子の隙間からいつもより鋭い目が覗いている。

「抗うわよ。……逃げるなんて有り得ないけど、だからと言ってただ一方的に暴かれるなんて真っ平だもの」

その目を真っ直ぐに見つめ返すと、波多野くんは急にぴたりと足を止めて口角を吊り上げた。

「……良いよ?やってみろよ」

不敵な笑みに鼓動が速くなる。どくどくと嫌な脈を打つ煩わしさに口の中まで渇いてきて、既に彼の思惑に嵌まりかけていると気付いて目を逸らした。この人に収まっては、囚われてはいけない。
ふうと一つ息を吐いたら、風が吹いて髪がふわりと軽く揺れる。

「……前髪を切りすぎたわ」
「は?……ああ」

ついこの間この人に切りつけられて思い描いていたより短くなりすぎた前髪を、帽子をとって撫で付ける。
あの出来事の後、私は直ぐに自分で前髪を切り揃えた。予定外に切りすぎることになってしまったけれど、どうせまたすぐ伸びるものだと気持ちを切り替えて部屋を出たところで丁度三好くんに出会して、私の変化に気付いた彼は一言幼くなりましたねと言ってきたのだった。
突然その時のことを切り出した私に一瞬何のことだと素頓狂な声を出した波多野くんは、けれども直ぐに思い出した様で続けて軽く相槌を打った。そしてそれ以降何も口にしないのはきっと彼の中ではあの出来事はもう既に終了した事項だからだ。反して私はわざわざそれを蒸し返した。勿論単に話題を変えようとしたのは大いにその理由としてあるけれども、それとは別に──たとえさっきの彼の言葉が宣戦布告だったとしても、だ。これは勝負事ではない。

「もう今後一切止めてよ、あんなことは」
「……約束はしねえけど。ま、けど一応今の言葉は覚えといてやるよ」

……あ、彼らしい。少なくとも私の知る“波多野くん”をその言い回しの中に見る。心の内にそんなことを考えながら言葉を紡ぎ出す。

「……急に鋏で切りつけられるのも、前髪が予定より短くなるなんてことももう嫌だもの」
「何、気にしてんの?別にそんくらいで良いんじゃねーの」
「三好くんには子供っぽいって言われたわ」
「三好の意見を優先すんのかよ」
「何よその嫉妬したみたいな台詞」
「馬鹿言え」

言葉通り馬鹿にした態度で鼻を鳴らす波多野くんに何となくほっとして目を伏せる。瞬きより少しだけ長く目を閉じて顔を上げたら、何だよと怪訝な顔を向けられた。

「やっぱり貴方は貴方だわ」
「は?意味わかんねえ」
「もう何がどうなったって嫌いになんかなってやらないってことよ」
「……だから意味わかんねー」

勝ち負けではない。それでも先程まで感じていた胸のざわつきはあっけらかんとした彼の態度に打ち消されてもう大丈夫、やっぱり緊迫した空気は好きではない。わざとらしくこほんと咳払いを一つ。

「では波多野さん、最後にデートらしく締めてくださらないかしら」
「あ?」
「貴方のせいで切りすぎたこの前髪、如何です?」
「面倒くせえ……」

はああ、と大きく息を吐いた波多野くんに構わず続ける。

「ちなみに三好さんは幼いとおっしゃいましたの。ねえ貴方はどう思うかしら、波多野さん」
「……大層見目麗しいと思うよ若宮さん」
「まあ、ありがとうございます」

にっこり笑顔を返してみせると正反対に苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる波多野くん。ぼそりと呟かれた称賛の台詞もきっとその本心とは真反対だろうけれど、それすら今日のデートの締め括りとしては上出来だと思えた。

「さ、では本当にそろそろ帰りません?いつまでここでぼけっと突っ立っていらっしゃるおつもりなの?」
「殴りてえ……」
「あら、銃器を乱雑に扱ったら暴発してしまいますわ?どうかお気をつけて、ね?」
「……覚えてろよ」
「生憎こちらの銃には言語記憶機能は備わっておりませんの」
「あーそうですか。もう良い分かったよ」

私の腕と絡めていた左手を振りほどいて、いつものポーズを取ろうとした彼の腕が頭の後ろで組まれる前に強くこちらに引いて強引に組み直す。

「ねえ波多野さん」
「んだよ……良い加減その話し方止めろ」
「どうせ解体するのなら丁重に扱ってね」
「……良く喋る銃だな」

だって銃ではないもの。貴方達の様な化け物ではないけれど、無機質な銃にすらなりきれないつまらない人間という生き物が私だ、それでも波多野くんが興味を示すというのなら受けて立ってやろうではないか。ひと度そう決意すれば何だかふっと気持ちが軽くなって、なんだやっぱりこれで良いんだと込み上げてくる満足感を、歩き出す彼に気付かれないように噛み締めて私も一歩踏み出した。


 
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