随分と暑さを感じない季節になった。夏の終わりと言えば良いのか、または秋口と言うのかその線引きは曖昧で断定出来ないのがこの時期の面白いところだと思う。まだひやりともしない割りに湿気を含まない風に揺られる髪が顔に掛かると随分と伸びたなと感じて、ふと切りたい衝動に駆られる。大は小を兼ねる、ではないけれど髪だって短いよりは長い方が好ましいとそれなりに伸ばしてはいるけれども、その長さに関係なく顔に掛かる部分……特に前髪なんかは単純に鬱陶しい。……と、一度そんな風に思ってしまったらもう自然とそれに沿った行動を取るもので、この程度なら自分で切ってしまおうとこの後の手順を頭の中に思い描く。何事も思い立ったが吉日だ。

自室に戻ると早速散髪の支度を始める。手筈通りに全て整え、鏡台を前に座って少し前髪を撫で付けて鋏を手にし、いざ、と構えた手に力を込めたその瞬間。

「おい」

びくりと肩が跳ねて、今にも前髪を刻もうとしていた鋏を持つ手をなんとか留めた。

「……危ないじゃない!」
「悪い悪い」

近寄ってくる波多野くんを振り返り睨み付けるとへらへらと笑っている。誰かが廊下を歩いてくる気配……以前に足音で近付いて来ているのはわかっていたけれど、まさかこの機に声を掛けられるとは思っていなかった私が甘いんだろうか。

「わざとでしょう」
「別にー?偶々だろ」
「……貴方ってほんっとに意地が悪いのね」
「今更それを言うかね」
「いつだって言ってやるわよ」

おー恐いねえ、なんて言いながら既に勝手に自室に入ってきている波多野くんは、きょろきょろと室内を見回して何かを探している。と思ったらベッドの横の使っていない丸椅子を徐に手にすると私の座る横にがたと置いて自身もそれに腰掛けた。随分と好き勝手なその行動に内心呆れるけれど、どうせそれを伝えてみたところでこの状況はきっと何も変わらないから言わない。
さて、と気を取り直して再び鋏を持ち直す……けれど。

「……ねえ」
「んー?」
「近い」
「そうか?」

台の上に頬杖ついて、にやにやしながらこちらを見上げている波多野くんの顔はいまだ鏡と向かい合う私のすぐ真横にあって、はっきり言って鋏を構える手の邪魔でしかない。

「何、私の前髪が短くなるのを阻止する任務でも与えられた?」
「馬鹿じゃねえの」
「……じゃあ邪魔しないでよ」
「逆の手で切れば?」
「馬鹿じゃないの」
「真似すんな」
「……はぁ」

こんな埒が明かないやり取りが続くうちはまともに髪なんて切れないと、わざとらしく大きく息を吐いて台の上に押し付ける様に一旦鋏を置いてみる。かたんと音を立てたそれにお、とか言ってる彼の方に少し体をずらして向き合った。

「何」
「だからさっきからこっちがそうやって聞きたいんだってば」
「あ、そう?」
「そうでしょう……」

再び漏れた溜め息にふーん、としか言わない波多野くんに良い加減嫌気が差してきて、一体どうすれば、何を言えば引いてくれるのか思案する。その間の僅かな沈黙でさえ相も変わらずにやにやしている彼。……試す様なことを言ってやったらどうなるのだろう。

「……ねえ、もしかして私がこれ以上綺麗になるのがこわいんでしょ」
「……」
「ちょっと……何か言ってよ」
「……そうだよ」
「え」

試す様な、それに少し強引にでもこの場を離れてほしくて出た言葉だった。ふざけんな、とでも吐き捨てて立ち上がってくれればもうそれで良いと、それなのに。「そうだよ」と、言ったの?肯定したの、今の私の言葉を?

「だからさ、俺が──」

ただでさえそこにある波多野くんの顔が一層近付いてくる。その表情にはもうあの生意気な笑顔の面影なんて微塵もなくて、本当にあの彼なのかと思う程に何の感情も読み取れない。何これ、冗談のつもりで言っただけなのに。というか冗談でしょ?もはや目の前、波多野くんの顔しか視界には入っていない。何これおかしいってば。

──あ。
感じ取ったのは左からの微かな気配で、ちらとその方向に目線を動かすと捉えたのはいつの間にか波多野くんの手に握られた鋏。既に私の米神辺りにその鋭利な部分を向けている。次の瞬間、シャキンと鋭い音を響かせてそれは宙を裂いた。……だけなら良かったのだけれど。

「……切ってやろうとしたんだけど」

文字通りの間一髪で仰け反った目の前をぱらりと落ちる数本の短い毛は間違いなく私の前髪だったもの。
波多野くんの言葉にはっとして、眼前でギラリと妖しい光を放つ鋏を認識したら、背筋がすぅっと冷えるのを感じた。

「……何なの!」

発した声も、そして唇も震えているのを自覚するけれど止められなかった。これ以上に恐い思いをすることなんてきっとこれからいくらでもあるというのに。

「お前ってさ、見てるとなんか妙にからかいたくなるんだよ」
「だからってっ……」
「悪かったよ」
「……っ」
「ごめん」
「そんなこと……!」

そんなことを言われても──いや。そんなことを、ましてや波多野くんに言われたら。……もう何も言えないじゃない。

「もう良い……」
「ん」
「……貴方ってやっぱり私のこと好きなんじゃないの」
「ん、」
「え!?」
「それはないだろ」
「……知ってるけど!」

語気を強めた私をふ、と笑った波多野くんは腕を頭の後ろに回していつもの彼になる。

「わかんねーなあ……お前見てるとどういうわけか無性にからかいたくなんの」
「……それもう聞いた」
「なあ、何で?」
「貴方がわからないなら私にわかるわけないじゃない……」
「……ま、それもそうだな」

ふいっと顔を背けた波多野くんは、きっと本当に自身の中にも問いの答えを持ち合わせていない。だからと言って誰が教えてくれるでもないから持て余している。わからないことがあるなんてだけでらしくないと感じてしまうのがここに集う人達の常なのに、今波多野くんは素直にわからないと言う。そんなの私が知るところではないなんて当たり前のことで、こちらに投げられたって困るのに。波多野くんはまーでも今日はいいや、なんて言いながら立ち上がって部屋を後にする。最初から最後まで全てが勝手すぎて、ただ頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回された様な気分になる。それを払おうとぶんぶん頭を振ると、ぱらぱらと短い髪が目の前を落ちていった。


 
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