ざあざあと雨が降り続いていた。
彼らを見ることもここから逃げ出すこともできず、壁越しの背後で女性が泣きやみ、彼に別れを告げるまでの間、僕はただそこに立ちつくしていた。
「じゃあね、ディーノ。もう会うこともないでしょうけど」
「うん。じゃあ、元気でな」
「ええ。貴方も」
ぱしゃぱしゃとヒールが雨をうつ音が聞こえる。徐々に遠ざかっていく足音はひとつ、鈍感気味な彼とはいえ、ここで彼女を送っていくほどの無神経さは持ち合わせていないようだ。足音が聞こえなくなってからも、彼は動く気配を見せなかった。
「………ろ、」
ぽつり。彼がなにかを呟いた。
雨音にまぎれ、あるいは声が小さく、僕の耳はそれを確かな単語として認識しない。不思議に思ってまた耳を澄ますと、また、ぽつり。
「…むくろ」
息をのむ。いつも僕を呼ぶ、あの晴れやかな響きは全くなかった。切実に僕を求め(何、を)、哀願する(だから、何を?)みたいな、狂おしいまでに哀しい声。
…どうして、と。そう思わずには。
「跳ね馬」
「!?」
堪えきれなくなって、そこから一歩、足を踏み出した。途端に屋根がなくなり、雨が僕をしとどに濡らしていく。手で顔を覆って俯いていた彼は僕を見るなり心底驚いた顔をして、次いで思いついて弾けるように駆けて来た。む、むく、つっかえつっかえ僕を呼ぼうとし、何度か失敗した後で、おそるおそる僕を傘に迎え入れる。
「…骸」
「なんですか」
「……聞いてたの」
「ええ」
しょぼくれた情けない顔で、彼はそっか、と諦めたように呟いた。腰に手をあて仁王立ちになった僕を見、迎えに、来たんだけど、ともう一度。
「駅の、…向こうにさ、ロマーリオが乗ってる車があるから。それで、」
「ディーノ」
「っ、……な、に?骸」
「僕が好きですか?」
彼女がしていたような、可愛らしい質問など僕にできるわけもない。ぐるぐると考え事ができる性分でもなく、僕は直球なまでに彼に問うた。貴方のいう想いはどれほどのものなのですか、と。
「…すき、だよ。お前が」
それは幾度もいわれてきた、誰かのための劣化コピーではなかった。彼の底、あるいは最も表面から、彼自身が選んで告げた言葉のように思えた。…だからこそ。
「貴方の想いが、誰かしらを傷つけることはあります。…けれどそれで、貴方が傷つくのはお門違いだ。それが嫌なら、貴方は僕を望むべきではない」
わかりますか。鳶色の瞳をしたから見上げる。
揺らめいたのは不安気な光、だがそんなものでは僕には到底足りない。想いを直接相手に与える方法が僕らにはない、だから僕たちは言葉を選ぶ。形ないものを届けるために、最も不確かで、最も理解しがたい言葉をつむぐ。
「…貴方は与えられることの意味を、わかっていますか」
「…?」
「僕を望む、その意味は?わかっていますか?」
迷子になった子供、ありきたりだがそれが一番、今の彼にはふさわしかった。戸惑い、悩んで、それでもまだ理解しきれていない。傘を持った手の甲に触れ、冷え切ったそこを温めるように包みこむ。視線が混じり、…彼がかすかに、僕(それはきっと僕の魂の名前)を、呼んで。
「…おれをあいして」
(おれをたすけて)
そんな、重い意味を持つものだなんて知らなかった。(違う、僕は知ろうともしなかった、)だから彼が僕を好きだというのもそばにいてというのも、全部が偽りだと思っていたのだ。(あるいはそう思いたかった、だって、)…僕は。
雨が降る。僕らを覆う。
まるで隔離されたひとつの世界。
「…あなたを、あいしてます」
はらはらとこぼれる粒、ごめんの意味が、今度はちゃんと。
僕の胸に、届いた気がした。
ぼくらはそれを
(あい、と)
(…そう、よぶんですね)