雨が降っているから少し遅れると報せを出すと、すぐに迎えが来ると返答があった。
そこまで急ぎなら空から帰ると再度伝えたが、それに対しての答えは『ノン』。禁止なのか必要ないということなのかと首をひねることしばし、急ぎでもなく迎えもあるというなら、気にすることもないかと携帯を閉じる。
雨はまだ、降り始めたばかりのようだった。
通行人の奇異の目(まあ当然だろう、今の僕はどこから見ても一般人ではない)から外れ、ひっそりとした裏通りに立った。屋根がある場所で一番端のところ、人通りも少ない静かな一角。
(………?)
ほう、ため息をついたところで、ふとすぐ横の路地から人の声がしたような気がした。先客でもいたのだろうかと、姿は見せないようにしてのぞきこむ。
最初に見えたのはゆるくカールした髪、それから小柄なワンピース。雨が降っているのに傘を持っている風ではない。彼女が対峙しているらしい相手の姿は見えなかった。
「やっと、…見つけた」
待ちわびたように、嬉々とした声で女性がいう。立ち聞きするにはそぐわない内容かもしれない、そう思って踵を返そうとした、…その時。
「…久しぶり、だな」
落とされた声。動揺と後悔を滲ませたそれは、例えば会議室で、例えばボスの私室で(それこそいやというほど)、僕自身よく聞いたものだった(なぜ__こんなところに)。
理由のほうはすぐに検討がついた。大方心配性でお節介なボスが、気をきかせたつもりで彼を手配したのだろう(彼の超直感とやらの使い道を今度厳しく教えてやらなければ)。
「ずっと、探してたのよ」
「…うん。知ってた」
「やあね、」
女性の方がくすくすと笑う。声の主が濡れていく彼女に傘を差し出す素振りを見せた(のだろう、女性の近くにちらちらと藍色の傘の端が見えた)が、彼女は控えめな性格らしく、いいの、とまた笑うだけだった。
「濡れるよ、」
「いいの、ってば。それより、知ってたのなら一度くらい、会ってくれてもよかったんじゃない?」
手を伸ばして無理矢理傘のなかに入れられた彼女は、少し寂しそうにそういった。しっとりと水分を含んだ髪をかきあげる。うすぼんやりとした灰色の下、彼女の瞳の色までは分からなかった。
「…ねえ、ディーノ」
うん、『彼』が呟くのを耳鳴りのする頭で聞いた。彼女の手が傘を持つ彼の手にのびかけて、躊躇うように下ろされる。彼が彼女の名前らしきものを口に出したが、ちょうど通りかかった車の音にかきけされてしまった。
「どうして急にいなくなったの?」
「…ちゃんとした別れ方をするのが難しかったんだ」
「だからおいていったの。ソファも部屋も鍵も、私の心までも」
「言い訳はしない、…悪いのは俺だ」
「私が嫌いになったの?」
「そうじゃない」
「じゃあまだ好き?」
彼、__ディーノが、言葉につまるのがありありと感じられた。口ごもるわけでもなく、ただ押し黙る。女性があのね、と少し大きめの声で、彼を見上げながらいった。
「私、また、ディーノと暮らしたい」
私はまだ好きなんだよ、雨音にかき消されそうな小さな声。ぎゅ、と僕は無意識に胸元を握りこんだ。ずきずきと痛むのは頭なのか胸なのか(それとももっと奥の方、なのか)よくわからなかった。ただ唐突に、ああ今僕はなきそうなのだと思った。
しとしとと雨が降り続く。なにかに祈るように(それは決して神などという偶像ではなく)、彼女は両手を胸の辺りで組んでいた。その祈りが届かないように、なんて祈る相手を僕は知らない。彼の声に(なぜ、)、耳を澄ます(…ぼくは)。
「…それはできない」
甘いテノールが、ぽつりとそこに落とされた。彼の姿は見えなかったけれど、きっと彼は俯いているのだろう。そしてその声は、地にあたって霧散する。
「…どうして」
「…前にもいったろ?」
「…好きなひとができたって、」
うん、その時だけ、彼は造作もなく言葉をつむいだ。初めて嬉しそうな色が声ににじむ。
「でも、私はそれでいいって、いったよ」
「…もう、愛人はつくらないって決めたんだ」
「なんで?一番じゃなくていい、私が望んでるのはもっと、」
「駄目だ」
はっきりと、言い聞かせるように(それもやはり彼女に、ではなく)断言する。女性が息をのむのが見なくてもわかった。
「…だめなんだよ」
弱弱しい呟きだった。馬鹿じゃないですか、彼に伝わることのない罵倒をひとつ。女性は何も言わない。震えるように息をすって、彼がまた、口を開いた。
「あんたが俺を好きだっていうなら、俺はとめない。誰かの気持ちを強制しようなんてつもりはない」
「…ディーノ、」
「…でも、あんたは他のやつを好きになった方がいい。だって、」
苦笑する。自嘲めいた笑いだった。口元に手をあて、ただ俯いた。…僕は、そんな風に彼がわらうことすら知らなかったのだと。
「俺は、どうやったってあいつ以外を好きになれないから」
だから、ごめん。謝ることしかできないと、彼はどこかで思っているのかもしれなかった。引力のようなものに逆らえず、僕はまたこっそりと彼女を視界にうつした。彼女はまっすぐに彼を見ているようだ。…その顔は、(僕が恐れた)絶望やその類では、なかった。
「…そう」
「…ごめん、な」
「ひどいひと」
「…うん」
彼女が、ほろりと微笑んで。
「でも、前よりずっといい男になったわ…」
笑みを保ちきれず、女性は顔を両手で覆ってうつむいた。ぽつぽつと雫が地に届き、傘のなかにもささやかに雨が降る。
彼は女性の栗色に、躊躇いながらも手をのせた。僕に触れる時とは違う、ぎこちない触れ方だった。肩を震わせ小さくなった女性を慰めるよう、けれど抱き締めることだけはしないままで。
困りきった顔の彼がまた、声を出さずにごめん、と呟いた。
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