ことり、持ってきたトレイをテーブルに置いた。
さあさあと波の音がする。鳥の声が遠く長く響いていた。鴎かなにかだろうか。僕はゆっくりと瞬きをして、レースの揺れる窓際に目をやった。日がさらさらと室内に流れ込む。
近くにあった杖を取り、彼を驚かせないようにそっと近寄った。長年無理を強いていた体はもはや限界だと訴えており、移動するのにいちいち杖や手すりやらを使わなければいけなくなっていたけれど、僕はそれでも構わなかった。ここには僕と彼しかいない。彼までの距離が三歩以上になることはない。息ができているだけで、僕はこれ以上にないほど幸せだった。
こちらに気づかない彼を見やり、すぐ横にあいているスペースに腰をおろした。伸ばされた足に、重さをかけないように慎重に手をのせる。記憶のなかよりもずっとずっと細くなった彼の足。傷だらけの足。僕を連れだしてくれる唯一の足。僕は彼の足が、とても、とても好きだった。
彼は海を見ていた。正確には海の方、だけれど。
ここ数年で徐々に失われつつある光を細めて、彼は海を見ていた。さわさわとレースが揺れる。天気は上々。風は心地好い滑らかさで過ぎていく。
「…ディーノ」
ぽん、と足を叩きながら彼を呼んだ。一度では決して振り返らないことを知っているので、少し間をあけてからもう一度。
彼は海を見ていた。その目を、瞬きもせずに僕にうつす。しばらく思案し、それからようやくといった風情で、ああ、と呟いた。
「…骸。戻って来てたんだ」
「ええ。なにか集中しているみたいでしたので」
「…うん」
そういってほんのりと笑う。出会ったばかりの頃はやんちゃな太陽のような笑みをしていた彼は、ここ十数年で紫陽花のような柔らかな笑みをするようになった。それが歳のせいなのか、それとも何か体験を通してのことかは分からない。その頃には、僕は彼とここで暮らすことになんの異議も異論もなかった。彼の傍らにいることが出来るなら構わないと思った。
「なにが見えます?」
「…うん。なにも」
「……なにも、って」
「あんまり、見えない。でも、あそこに海があったって、しってるから」
言い直された彼の言葉にほっとする。痛むだろうかと足をさすっていた手をとられて、また思案しているような表情で目を閉じた彼を見た。息が少し深い。冷え気味の手をぎゅっと握り返して、少しでも熱が伝わるようにと祈った。
…彼が、ぽつりと。
「…オレさ」
「…はい」
「目がみえなくなるっていわれて、ずっとこわかったんだ」
安心そのもの、みたいな顔をして僕の手の甲を額にあてる。「…はい」彼が息をするたびに風がふきつけて、僕もまたほんのりと笑った。
「…でも、わるくないって、おもえるようになったよ」
「…どうして」
「だってさ、音はまだきこえるし、こうやって、骸はそばに、いてくれるし」
ちゅ、昔見たいに手の甲に口づけて、ディーノは子供のようににっこりと笑った。懐かしい笑顔。そのまま頬を寄せて、またふわり、紫陽花が花開く。
「骸さえみえてれば、オレは大丈夫だから」
色褪せた髪、しわの増えた皮膚。なによりも僕を甘やかすその声に、
…僕は、かつての彼の面影を見ていた。
僕を照らす一条の光。
(貴方が僕を見失っても)
(僕はいつでも、貴方の傍に。)