キッチンでコーヒーを淹れながら、カウンター越しにソファに座る横顔を見つめていた。手元でガリガリ音を立てて粉になっていくコーヒー豆と、しゅんしゅん湯を沸かすケトルと、窓の外から聞こえる鳥の声と、コーヒーを淹れるオレと、それから。
 ほんの少しだけ首を傾げるようにして本を読む巻島を眺めるのが、東堂はとても好きだった。

 今日は珍しくどちらのチームも休養日で、ここしばらくレースが込んでいたふたりは家で静かに過ごすことを選んだ。東堂としてはどこか食事をしに出かけたり映画を見に行ったりしても良かったのだが、巻島の読みたい本がある、という一言で全てを受け入れることに決めた。どこへ行くにせよ何をするにせよ、巻島とで無ければ意味がない。お互いの間に自転車を挟まずとも違和感を覚えなくなったのは、もうとうに昔のことになってしまった。
 最も、自転車でしか会話が出来ないと自覚していた巻島は、それでもずいぶんと長い間、居心地の悪そうな表情をしていたものだったけれど。

 ピィ、高い音とともに湯が沸騰する。ちょうど挽き終わった粉をフィルターの中にセットして、緩やかに回しながら湯を注ぎこんだ。
 巻島が気に入ったというカフェのオーナーの見よう見まねでしかないが、試行錯誤するうちに彼が満更でもなさそうな顔をするようになったので、東堂はこの手間のかかるあれこれが意外と嫌いではなかった。
 最初の頃こそ、全てが基本通り、スタンダードを愛する男としてはあやふや極まりない作業にはどこか懸念を抱いていたが、今ではこうして、特に集中することもなく適当に、というスタンスも生活の所々では見られるようになった。
 自分も誰かに影響されるような人間だったのだな。巻島と出会ってからの東堂の人生は、まるで万華鏡にも似た輝きと不安の毎日だ。

 思わず零れかけた笑い声を噛み殺して、ふたつ分のカップを持ってそっとキッチンを出た。巻島は先程から見つめていたままの体勢で、時折長い髪をゆっくりと耳にかけている。その指先が好きだ、と思う。半ば無意識であげられた腕が、手のひらが、指先が、そっと髪をすくうのが好きだ。男にしては豊かなまつげが揺れて、黒目が小さな瞳が隠れる。現れる。連続した動作の一瞬一瞬に、東堂はただ、好きだ、と心中で呟いた。

 ソファの目の前に置かれたローテーブルにカップを乗せる。こつり、と音がしたけれど、巻島に特に気づいた様子はなかった。集中しているのか、それとも油断しているのか。どちらでも良いな、と東堂は微笑む。東堂にとって、巻島は「良い」か「好き」のどちらかでしかない。
 足を組んで座っている巻島のすぐ下に座って、わざとらしいくらい近くで顔をのぞきこんでみた。視線が右の方に動いて、左に戻って、また動いて、しばらくすると右手がページをめくる。気づかないものかなあと思いつつ、「巻ちゃん」と囁くような音量で呼んでみた。巻島からの応答は無い。少しだけ拗ねた気分でもう一度「なあ、巻ちゃんてば」と呼んだ声は、巻島の「んー?」というおざなりな返事で沈黙させられてしまった。
 ふむ。しばし考える。足をちょっと崩して座って、開いた膝の間に両手をついて、組まれた巻島の足にちょこんと顎を乗せる。これはだいぶグラビアっぽいのではないか!? と上目遣いでもう一度。

「まーきちゃん」
「ん」

 伸びてきた右手にしめた、と思ったのも束の間、カチューシャのささった東堂の頭をぽんぽん、と二度叩いて、その手は無情にもまた本の上へと戻ってしまった。いくら自他ともに認める美形がグラビアっぽいポーズをしようとも、見てもらえなければなんの意味もないのである。東堂は完敗だと唸り声をあげた。ぐぬぬ。
 悔し紛れに深緑の生地に空色と橙でチェックが描かれた靴下をつんつんと引っ張ってみる。奇抜な色合いはもう見慣れたものだ。
 東堂自身は単色やシンプルな色合いのものを好むが、共に住むこの家はほとんどが巻島の趣味嗜好で彩られている。つまりはあちこちにハイセンスな配色が見られるということだ。さすがに寝室には遠慮してもらっている分、カーテンやカーペットの豪奢な刺繍は二つ返事で了承した。目がちかちかする色合いの真ん中に、東堂にはよく分からないセンスの服を着た、玉虫色の巻島が座っている。
 その横に添えられたオレはどうだろう。ちゃんと馴染めているのだろうか。靴下のつんつんをとめないまま、東堂はぼんやりと考えた。

「……巻ちゃん」
「んー」
「オレとこの家って、相容れなくはないかね」
「あァ?」

 ぼそぼそと呟いた愚痴のような言葉に、今度こそ巻島は本から顔をあげた。どれだけ引っ張ってもつついても気にしなかったのにと東堂は眉を寄せた。
 巻島がこちらを見たことが嫌だったのではない。聞かれたくない言葉に限って、巻島に届くようにこれ見よがしに呟く自分が嫌になっただけだ。

「おまえそこで何してんの?」
「何でもない。気にせず本を読んでくれ」
「やな言い方」
「……さっきまで気づいてもくれなかったくせに」

 わざとらしく言葉を選んで、巻島が呆れてくれるように誘導した。彼が薄情だと言いたいわけではないけれど、そうでもしなければ泣きついてしまいそうで、それは遠慮しておきたかった。
 自転車に乗れば自信満々で、自転車を降りた自分にも自信はあったが、その全てにおいて、巻島に愛される自信が東堂には無かった。無条件で愛してもらえる自信がなかった。だからこそ、彼の興味をひいて、彼を受け入れて、肯定して。……昔から、巻島に怒られるのはそういうときばかりだ。

「ふーん」
「いや。気にしないでくれ」
「おまえが、なんて?」
「……いいのだよ巻ちゃん」
「相容れないって何が?」
「聞こえてたんじゃないか!」

 羞恥とほんの少しの憤りでばっと顔をあげたら、赤くなっているだろう頬を両手でむぎゅっと挟まれた。あ、近い、と思った瞬間、すぐそばでちゅ、と軽いリップ音がする。唇に残る柔らかい感触。驚きでみはった目に、次いで巻島の細い指先がうつった。
 巻ちゃんのまつげ長い、と脳裏を過ぎった思考を叩くようにペシッと響いたのは、指先に打たれた東堂の額の音だ。

「――ったい! 痛いぞ巻ちゃん!!」
「うっせーよ」
「うう、ひ、ひどいではないか……!」
「ンな強くやってねーっショ。で?」
「っ、いや、」
「ん?」
「……構ってくれ」

 巻ちゃん、と額をさすりながら言ったら、巻島は最初っからそう言えよ、と本をカーペットに放り投げながら笑った。その笑みが好きだ、とまた思って、腕を引かれるままに巻島の膝に乗り上げた。中途半端な体勢になって、膝枕をしてもらうかどうか悩んで、結局東堂はそのまま巻島の首に両腕を回す。拒まれなかったのをいいことに首元に顔を埋めて、なるべく体重をかけないようにして足の上に座り込んだ。
 ぽんぽん、と叩かれる背中が心地いい。この巻島の独特な撫で方が東堂はとても好きだった。

「巻ちゃん、巻ちゃん」
「なんだよ」
「まーきちゃん!」
「とーどぉ」
「巻島裕介ー」
「東堂尽八ィー」
「登れる上にトークも切れる!」
「更にこの美形、ってかァ?」

 呼ばれたフルネームに思わず体を離してビシリと指を差せば、先程打たれた額を今度は手のひらで優しくぺしりとはたかれた。
 むぎゅ、と出した声に巻島がクハッと笑う。

「巻ちゃんはこの美形を物理的にへこませるのが好きか……」
「鼻は元々高くねェしな」
「和顔と言ってくれんかね」
「精神的にへこませんのも好きっショ?」
「これ以上は遠慮しておこうか!!」

 危うく額以外もへこませられるところだった。いや額もリアルにへこんでいるわけではないが!
 もう黙っておいてもらおうと、お返しとばかりに巻島の唇に自分のそれを合わせた。唐突な戯れもお互い慣れたもので、東堂が髪にさしこんだ手でゆっくりと頭のかたちをなぞれば、巻島は東堂の背中に回した手でそっと背骨をたどる。
 舌を引きずりだしてやろうと奥まで追ったそれをやわらかく噛まれて、東堂の喉が反射的にくっと鳴いた。背骨に甘く爪がかかる。欲にまみれた唇に触れて、すぐ下にある黒子をついばんで、たまらなくなって抱き込んだ体をそのままソファに押し倒した。
 楽しそうな声が耳元で笑う。熱い息を吐いたのはどちらも同じだった。

「巻ちゃん、服に手をつっこむのは構わんが、あまり煽らないでくれ」
「んー?」
「こ、っら、巻ちゃん!」

 薄いパーカーにつっこまれた巻島の手が東堂の背中から前側に回り、密着した窮屈さをものともせずに鎖骨の上をすべる。
 どうにか堪えようと相手の首から下には触れようとしなかった東堂の手が、やむを得ず巻島の腕を思い切りつかんだ。思うよりも細いそれは、けれど自転車に乗れば力強くハンドルを操り、ベッドの中では後頭部を押さえて離さない。情欲の記憶は常に鮮明だった。ごくりと唾を飲みこんだ東堂に、巻島が嘲笑うように口の端を歪ませた。

「おめぇに我慢なんて似合わねえんだよ」
「っ、しかし巻ちゃん、明日は朝練だってあるだろう」
「実はオレ、明日は午後からなんだよナー」
「ま、まきちゃあん」

 くすくすと笑う巻島は扇情的だ。東堂はすっかり困ってしまって、いつもつり気味の眉をへなへなと下げた。
 交わるときに負担が大きいのは断然巻島の方だ。だからこそ東堂は、翌日に練習やレースがある日は決して触れ合う以上の行為はしてこなかった。けれども、いくら朝練がなくても練習はあるのだから駄目だと言う東堂に、オレがいいっつってんだからいいんだよと強引に進めてしまうのが巻島の常だ。それを東堂は心苦しく思っていた。
 一方的に負担を強いるのは本心ではないと何度か役割交代を言い出したこともあったけれど、東堂が最中に苦しそうな顔をするのも翌日ベッドに沈んでいるのを見るのもいやだと、ここ最近は断られ続けていた。どうやら東堂に受身の才能はないらしい。天に三物を与えられた山神にも、与えられなかった才は存在した。それがより東堂の胸を痛ませる。

「どうしてもしたいならオレが下になる。これは譲れんよ」
「……おまえはそっちの才能ねぇから諦めろ」
「巻ちゃんだって最初の頃は結構苦労したじゃないか」

 触り合うだけで我慢してもらうしかない、とすっかり立場が逆転してしまった思考で、東堂は巻島のシャツの中に手をすべりこませた。スポーツマンらしいかたい体とかすり傷でざらついた感触。やわらかさなど欠片もない体に手のひらをあてながら、それでもこれじゃなければと何度でも思う。
 やわらかさが欲しいなら唇をふさいでしまえばいい。東堂にとって、巻島を手に入れる以上に欲しいものなどなかった。

「才能あっても慣れが必要ってことっショ」
「オレとて回数こなせばなんとかなるのだよ!」
「……おまえ、オレがつっこむとすぐ泣くからヤダ」
「そ、それはだな!?」
「毎回毎回ぴーぴー泣きやがって」

 のしかかられたままの体勢から巻島が東堂の顔を引き寄せて、瞼と目尻にちゅ、ちゅ、と唇を押し当てた。それだけのことになぜだか泣きたくなってしまって、東堂はずび、と鼻を鳴らす。ほら、と困ったような巻島の声が聞こえて、反射的にすまん、と息を吐いた。
 東堂は巻島に慈しまれることに慣れていなかった。愛されることに耐性がなかった。苦しかったわけでも、悲しかったわけでもない。ただ幸せで、巻島のことが愛おしくて、思わず涙があふれるのだ。

「巻ちゃんが好きだから、どうしても欲しかったから、それで涙が出るんだ」
「クハ、お手軽な幸せだなァ」
「おまえは本当に、自身の価値を分かってない」

 オレがおまえを手に入れるのにどれだけ、と続けようとした言葉は、巻島の体に飲みこまれた。宥める風な温度にまた泣けてきて、コーヒーが冷めてしまうな、と場違いに思う。巻島に構ってもらうための尽力を東堂は惜しまない。
 分かってねぇのはおまえだよ、とささやく巻島の声は、他の誰に向けたものよりも、ずっとずっとやさしい。

「色とか形とか、そんなのは関係ねぇの」
「む、なんの話だ、巻ちゃん」
「この家は、全部オレの好きなもんで出来てるっショ。空間も、小物も、置物も、それから、同居人も」
「……まき、ちゃん」
「オレがおまえを手に入れんのに、どんだけ苦労したと思ってんだよ?」

 この場所全部が、オレとおまえのためにある。
 挑発する笑みに、東堂は今度こそ巻島の襟元を両手で握りこんだ。ぐっと押しつけて、呼吸も奪うほどのキスをする。さっきよりもずっと深く荒く、体も心も暴くような。絡んだ舌が内側を撫でるたびに巻島の手が首の後ろでくっと丸くなって、それだけで簡単に煽られる自分がいる、と東堂は沸騰した思考の中でやはり泣いてしまいそうだった。

「……巻ちゃん」
「ん?」
「好きだ、巻ちゃん。裕介」

 おまえが好きだ、どうしようもない。恋よりも深く、愛よりも重い、こんな感情を東堂は知らない。
 けれど、持ちうる言葉の中で、この気持ちに最も近いものがそれだった。

「……オレも好きっショ、尽八」

 ばかで愛しいオレだけの。

 どんな道を走っても、どんな山を登っても、どんな場所に立っていても。手に入れたくて触れたくて交わりたくて、全ての感情をぶつけたいと思った男からの、あまりに真っ直ぐな愛だった。


 握った手は同じ温度でじんわりとあたたまる。
 好きなものに囲まれた世界の中心で、おまえでなければ意味がないと、ただひとつの最愛を腕の中に閉じ込めた。
 


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -