休日前夜の居酒屋はほどほどに混みあっていて、そこかしこで酔っぱらいたちの怒鳴り声や笑い声が響きわたっていた。流されるままに座った座敷の隅で、巻島はぼんやりと熱燗をあおる。酒はそんなに強い方ではなかった。というよりも、イギリスにいた頃は酒よりも紅茶を開拓していくのが楽しくて、ビール以外を飲んでいた記憶はあまりない。座敷をぐるりと見渡せばそこに見えるのは慣れた面々の顔で、久々に口にした日本の酒は冷えた体にじんわりと染み渡った。

「それにしても、久しぶりだよねぇ」

 しみじみと零すように言ったのは巻島の正面に座る新開で、こちらはずっと強めのジンベースカクテルを傾けている。癖毛のような髪は相変わらずだと笑ったのはつい先ほどのことだ。変わらないねと微笑まれた玉虫色の髪を後ろに流しながら、巻島はクハ、と声を漏らした。

「おまえ、さっきからそればっかっショ」
「そうか?」
「酔ってんのかァ? そんなに強い酒ばっか飲むからだろ」
「オレは酒強いよ。勝負する?」
「お断り。田所っちなら喜んで受けるぜ」

 指先だけで促すように言ってやれば、新開の視線がすぐ隣でどんちゃん騒ぎをしている田所たちに向けられる。一気飲みやら大食いやらの勝負に絡みだすのは大体鳴子で、速さなら負けないと泉田が加わり、鳴子に煽られて今泉が巻き込まれる、というのがここ数年の定番だった。酒豪の田所にかかればどんなやつもひとひねりでやっつけられてしまうので、金城がジャッジのごとく見守っているのもいつものことだ。その向こうではなぜかニコニコしている真波を荒北が止めていて、小野田がそれにビビり倒し、福富は他のやつらからお裾分けされた酒をちょこっとずつ口にしている。東堂はどの騒ぎにも加わらず、かつ全ての騒ぎの中心になっていた。

「迅くんはどっちかっていうと食べる方だからなあ」
「おめぇもだろ」
「尽八は?」

 唐突に尋ねられて、巻島は少しだけ首を傾けた。お猪口に注いだ濁り酒で唇を湿らせて、先ほどとは逆の向きにさらりと髪を流す。

「あいつはー、んー、そこそこっショ。多分」
「多分、なんだ」
「ほとんど二人でしか飲まねえから。あいつは呼ばれても緑茶好きで通っててスルー出来るし、オレには飲み会行くなってうるせぇんだヨ」

 眉間にしわを寄せて言えば、新開は過保護なんだなと軽快に笑う。過保護っつうか嫉妬深いだけだなあいつは、なんてことは言えず、肩をすくめるだけにとどめた。ちらりと東堂に視線を投げれば、楽しそうにグラスを傾けながら荒北に絡んでいる横顔が見える。
 自他ともに認めるほどの嫉妬深さを抱える東堂も、気の置けない仲間しかいない場ではこうして巻島の隣を離れることがある。開始早々はすぐ隣でいつものように話していたが、巻島が荒北と話しだして、田所の大食いにツッコミを始めた辺りからはもういなかったように記憶している。そのときは真波と小野田に懇々と演説をしていた。中身はよく聞こえなかったが、真波が半分寝ていたので推して知るべしといったところだろう。ちなみに小野田の目はキラキラしていた。何年経っても素直な後輩。

「裕介くんがイギリスなんか行っちゃうから。尽八はいつでも心配なんだな」
「たかだか六千マイルとちょっとっショ」
「箱根から千葉に比べれば、どこ行ったって遠いんじゃないか?」
「お隣さんじゃなきゃ気がすまねえってかァ?」
「それこそ、同じ部屋に住まなきゃだめなんだろ」

 大事なものは傍から離したくないんだな。愉快そうに言う新開には、きっと巻島と似たようなイメージが浮かんでいるのだろう。書道の一式。ビンに詰めた色とりどりのビーズ。ぴかぴかのカチューシャ。古めの機種の携帯。リドレー。それから――それから。
 馬鹿馬鹿しいとは一蹴できず、やはり巻島は唇の端を少しあげただけだった。

 緩やかな雰囲気がふたりの間を満たした頃、新開の隣に足音高く寄ってきた影がどさりと腰をおろした。巻島が視線だけで見上げれば、ほんの少し頬を染めた荒北が肩肘をついたままでよォ、と手をあげた。同じく指先だけをあげて返す。

「なァにちまちま飲んでんのォ」
「ジャパニーズスタイルってやつっショ」
「日本人ならぐいっといけぐいっと」
「ジャパンのルールよくワカラナイヨー」
「外人か!」
「ツッコミにキレがないぞ、靖友」
「っせーよバァーカ」

 新開の頭をべしんと容赦なくひっ叩く荒北は、どうやら見た目よりもずっと酔っぱらっているらしい。叩いた音が存外に良く響いたらしく、けらけら笑っては床をべしべしと連打している。合間にもう一度新開の頭をべしんと叩いて、いい加減にしろよ靖友ぉ、と涙まじりの非難を浴びていた。

「向こうのは済んだのかァ?」
「あァ? あァ、真波の野郎がちゃんぽんしたの福チャンに飲ませようとかしてっからよォ、逆にあいつの胃袋におさめてやったトコ」
「……それ、真波は大丈夫なのか」
「大丈夫じゃナァイ? あいつ酒強ぇーんだよ」

 それにしてもどうかと振り返った先には、いつの間にかつぶれていたらしい小野田を介抱する真波がいた。机につっぷす小野田の背をあわあわしながらさすってはコップを勧めている。予想した図と完全に真逆の様子に、巻島も新開もあー、と間延びした声を零すしかない。

「……まァ、ならいいか」
「そうそう。っつーか、オレの用事はそっちじゃなくて」
「なんだヨ」
「あれ。そろそろつぶれんじゃねェの」

 楽しそうな荒北の声に促されて真波と小野田の向こう側を見れば、寝入ってしまったらしい福富と今泉にそれぞれの上着をかけてやる金城と、皿の残り物をつつく田所・鳴子・泉田と、その隣で、こくりこくりと舟を漕ぐ東堂の影があった。ふすまに寄りかかる顔はほんのりと色づき、時折ごし、と目元をこする仕草をしていた。

「あー……あれは寝るな」
「だろ。教えとこうと思って」
「さんきゅ。こっち持って来るわ」

 そうだね、と笑う新開に断って、ちょうど空になった徳利をついでに持って立ち上がる。邪魔にならないように隙間を縫って、ふすまのすぐ手前に徳利を置いた。それから、膝を立ててしゃがみこむ。東堂に気づいた気配はなかった。またひとつ、頭がささやかに傾いて、真っ黒な髪がさらりとこぼれる。俯きがちになっていた東堂の額に指をあてて前髪を持ち上げると、ようやく気付いたように群青の瞳が巻島の姿をうつした。

「東堂。だいじょぶか」
「……まきちゃん」
「おう。また随分飲んだみてぇだな」
「む、……そう、だな。だいぶ」

 ごし、と目元をこする東堂の手を取り上げてぽんぽんと叩く。もう一度、む、と呟くように喉を鳴らした東堂に笑って、軽く腕を引いて立ち上がるよう促した。

「もう眠いっショ。まだ時間あっから」
「ん。……まきちゃん」
「どした」
「……だっこ」

 ささやかな音量で聞こえた言葉は随分と甘えた子どものようで、巻島は思わずきょとんと目を見開いてしまう。そのまま瞬きを数度。反応しない巻島に焦れた東堂は、重たい腕を持ち上げて巻島の手首をきゅっとつかむ。ほんの少しの力で自らの方に巻島を引き寄せながら、もう一度、だっこ、と小さく要求した。

「……はいはい」

 しょうがねぇなと笑う巻島にとって、東堂のこの要求は慣れたものだった。ただ、今までは自室でしか言われたことがなかったので、笑うにも怒るにも反応が遅れてしまったのだ。甘えたいときの東堂は気が短い。一度の要求に即返答がなければ拗ねてしまう。実際今目の前の東堂も眉を下げて唇をとがらせて、オレは今駄々をこねていますと言わんばかりの表情をしていた。
 その顔がおかしくて、それでいて愛おしくて、巻島はぐっと力をこめて東堂の腕をひいた。立ち上がらせて、なんとか先ほどまでいた位置まで戻る。壁の角を背もたれにして座り込むと、重力に引かれるようにして東堂が抱きついてきた。新開と荒北に笑われているのにも気づいていないだろう。肩口にぐりぐりと押しつけられるデコが思うよりも痛い。手のひらでぐっと押して一度はがし、カチューシャを引っこ抜いて手近にあった東堂のバッグに投げ入れてから、手をぱっと離す。もう一度重力に従って戻ってくる東堂の頭を、いつくしむようにぽんぽんと撫でた。

「まきちゃん」
「あいよ」
「まきちゃん、まきちゃん」
「どした、じんぱち」
「まきちゃん、すき」
「ん」

 頬や頭をぺたぺたと触られて、首元には熱い吐息がかかる。こんな風にして与えられる愛を素直に受け止められるようになったのはいつからだろう。酒を飲むたびに、巻島は思考の隅でいつも考えていた。最初に橋をかけたのは東堂の方からだったけれど、その橋を少しずつ強く長くしていったのはどちらもの気持ちがあったからだ。それがうれしくて、誇らしくて、こうして触れ合うたびに、巻島はただよかったと思う。よかった。本当に。
手を離さずにいられたのは、相手が他ならぬ東堂だったからだ。てらいもなく好きだと繰り返してくれる東堂のお陰で、巻島は自分を嫌いにならずにすんだ。

「だいすき。すきだ、まきちゃん。あいしてる」

 腰にぎゅうぎゅうと腕を回して、耳元で何度もまきちゃんと繰り返す。愛をささやくというよりは眠さにぐずっているような甘えた声だったが、それでも巻島はひとつひとつにこたえて額や頬にキスを落とした。ふにゃりと溶ける笑顔を見ていると、離してやれないな、といつも思う。これも絆されるということなんだろう。ぱち、じんぱち、と囁く合間にとんとんと背中をたたけば、そのうちすう、と深い呼吸が聞こえるようになる。オレも好きだ。耳に直接声を落として、何度か呼吸を数え、変な風に折りたたまれてしまった足をのばしてやってから、そこで巻島はようやく息をついた。
 静かに成り行きを見守っていた風の新開がふはっと息を零して、一方の荒北はやれやれだねェとテーブルに身をもたせかける。巻島も同じように笑い返した。

「……お疲れさま、裕介くん」
「ほんとにな。……見苦しいとこ見せて悪かった」
「べぇっつにぃ? それ言うなら高校ンときのが酷かったっつぅの」
「それはオレの管轄外っショ」
「毎日毎日巻チャン巻チャンってうるさくってヨ。まァ、あの頃に比べりゃ、今の方がずっといいんじゃナァイ?」
「……今の方が、って?」
「尽八が幸せそうだってことだよ」

 毎日楽しそうだ。グラスを傾けながら新開が微笑む。

「今度は置いて行かれなかったって、何度も何度も話してきたもんな」
「……別に、あのときだって置いて行ったわけじゃ」
「そうだよ。裕介くんには裕介くんの人生がある。何も置いて行ったわけじゃない。尽八も分かってるさ」
「そんでも、まァ、嬉しかったんデショ」

 巻島と住むことになった、と息を弾ませて報告してきた東堂の表情。よかったなと返した新開も、どうでもいいわと返した荒北も、内心では同じくらいにほっとしていた。未練を断ち切るにせよ次に進むにせよ、東堂が少なからず傷つくことは明白だったからだ。だからこそ、その糸が切れてしまわなかったことに安堵した。かつての仲間が傷つけられなかったことに安堵した。その結末が今目の前の情景だとするなら、もうそれで構わなかった。

「大事にしてやってよ。意外と繊細なメンタルしてるみたいだから」
「女のことはオレに聞けとか言っときながら、男ひとり捕まえておけないんだからナァ」
「クハッ。……まあ、オレはイレギュラーだからな」
「良くも悪くも。ってことだね」

 新開がのばしてきたグラスにお猪口をこつんとあてて、冷めきった日本酒をぐっと胃の中に流し込む。それでも体は温かかった。抱き込んだ背中に手を回せば、不思議なことに、心もずっと温かかった。
 


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