普段通りの練習を終え、部室のすぐ外でビアンキを磨きながら、荒北は半ばぼんやりと息を吐いた。天気は快晴、練習場の具合もよく、タイムはまた少しだけ短くなった。そんな日であるのに、どうしてこうも憂鬱な気持ちにならなければならないのだろうか。汚れたチェーンを拭きながら、このぴかぴかのチェレステに思いっきり油でもぶちまけてやったらすっきりするか、なんて意味のないことを考える。それでも手はよどみなくメンテナンスを続けるものだから、自分も随分慣れたものだと諦観まじりに思考した。季節は春過ぎ。学年があがったばかり。荒北がビアンキを相棒にして、すでに一年が経過していた。

 荒北がメンテナンスをする横に、黒いサーヴェロがかちゃんと軽い音を立てて入り込む。視線も意識もやらないままにチェーンにクリーナーを噴きつけていると、高い位置からヒュウ、と口笛のような高い声が降ってきた。それに舌打ちで返しても、声の主は動じた様子もない。顔を見なくても分かる、今最もエーススプリンターに近い男、新開だ。今年のインハイメンバー入りの噂も耳に入っている。荒北は入部したばかりの頃、新開が常にお菓子のようなものをかじっている姿を見て、あいつ近いうち死ぬなと勝手に思っていたこともあった。今では完全にウザい同学の野郎のイメージしかない。その証拠に、舌打ちをされた新開よりも、隣に座られた荒北の方が確実に苛立ちを覚えていた。

「靖友、随分様になってきたなぁ」
「っせーよざけんなどっか行け」
「口の悪さも絶好調ってところか?」
「うっぜ! 慣れ慣れしんだよ!」
「うざくはないな!」

 チェーンを拭き終えた油まみれの布を新開に思い切り投げつけたとき、演技がかったような声が逆方向から勢いよく飛び込んだ。荒北が露骨に嫌な顔をしたそれも意に介さず、どうあがいても視界に入る角度からビシッと指を差しながら出てきたのは、こちらも次期エースクライマーとして開花しつつある東堂だった。その肩には真っ白なリドレーを抱えている。頭のカチューシャも完全装備。どこからどう見ても馬鹿っぽいとは荒北の言である。かつての自分の頭については完全に棚上げだ。まさかこいつもここでメンテする気かよと荒北が思う間も無く、当然のような顔をして東堂は二人の隣に腰をおろした。荒北が死んだ魚のような目で東堂を見やれば、なぜか輝かんばかりの笑顔でサムズアップされる。何のグッジョブだよ。新開はオレの肩を叩くんじゃねェよ。慰めてるつもりか。ツッコミきれなかった言葉が脳内で駆け廻り、とどめておくことが出来なかった荒北はとうとう口元を歪めて怒声をあげた。

「おまえらなんでいるわけェ!?」
「なぜとは愚問だな荒北」
「そうそう。おめさんと同じ、オレらもメンテ」
「ちっげーヨ! なんでここでやってんだって話!」
「ヒュウ! どうやら靖友の許可が必要だったみたいだぜ、尽八」
「なるほど。縄張り意識というやつだな! しかし今更だな荒北、オレも隼人ももう腰をおろしてしまったぞ!」
「場所移動するにしても、器具が近いのはここだしなあ」
「遅くなると寮母さんが風呂場の湯を空けてしまうのだよ。おまえも知らんわけではあるまい」
「ってことで、仲良くメンテしようぜ靖友」
「文句は無しだぞ荒北」
「ほんとうっぜーなおまえら!」
「うざくはないと言っているだろう!」
「そういうとこがうぜーんだっつの!!」

 東堂には空になったスプレー缶を投げつけてやれば、指差し分の油断かどうか、カチューシャで丸出しの額に思いきりヒットした。「あだっ!」と軽い悲鳴めいた声をあげて後ろに倒れ込んだ東堂を新開が思いきり笑っていて、それでどうにか留飲を下げる。急がなければならないのは荒北も同じだ。とにかくさっさと終わらせてしまおうとギア一枚一枚に丁寧にタオルをかける。額をさすりながら起き上った東堂もパワーバーをポケットにしまった新開も、メンテが始まった途端に口を閉じて真剣なまなざしをしていた。自転車を扱うもの同士、相棒の手入れに邪魔をする気は微塵もない。荒北はフンとひとつ鼻を鳴らして、ブレーキ部分を拭くためのクリーナーを拾い上げた。

 しばらく黙々とメンテナンスを続けていると、東堂が不意にぽつりと荒北の名前を呼んだ。ちらりと投げられた視線は交わることなく宙にとどまる。まるで囁くような小声だったため、荒北はそれを一瞬猫の鳴き声か何かだと勘違いし、とりあえず反射的に「んー」と返事をした。東堂がリドレーから顔をあげていることには気づいていない。今日の夕飯何かなァとまたぼんやりしたところで、東堂が焦れたように「荒北!」と声をあげた。

「んだヨ、っせーな」
「さっきから呼んでいるだろう。無視をするんじゃない」
「あァ? そんな呼んだァ?」
「二回目だな」
「さっきからってレベルじゃなくね!?」
「うるさいぞ荒北、夜中なんだから静かにしろ」
「てめェに言われたくねーよ!」
「で、どうしたんだ? 尽八」

 荒北がもう一本のスプレー缶を握りしめたとき、新開が助け舟を出すようにそう言った。油汚れの無い手で取り出したパワーバーの角をかじる。飄々としたその表情に、荒北の眉間にはしわが寄った。
 荒北と東堂はしょっちゅう諍いを重ねていて、お互い自転車乗りにも関わらず手や足の出る大喧嘩に発展することもあった。多少のことなら同学同士のかわいい喧嘩で済むかもしれないが、あまりの大怪我を負うような喧嘩は部にとっても大変よろしくない。部内でもそれなりに走る方である二人が怪我で休部なんてことになったら、代交代を経ていよいよインハイというこの時期の士気にも関わることになる。二人とも、重要なメンバーではないが、欠ければ困るメンバーにはなっていた。実質今の二年のとりまとめ役である福富にも迷惑がかかるかもしれない。新開はそこをよく理解していて、こうして何回も二人の喧嘩を仲裁していた。来年同じ"エース"と名の付くゼッケンを背負いあうことになるかもしれない東堂と、福富が目をかけて部に引き入れた荒北。新開にとっても、二人は居心地のいい人間だった。威嚇しあう二人を見ながら、新開は少しだけ愉快そうに微笑んだ。

「む。荒北がぎゃんぎゃん吠えるせいで言いづらくなったではないか」
「オレのせいかヨ」
「尽八。おめさんが言わないならオレが言っちゃうぜ」
「それはならんな隼人! 人任せにしてはならんのだよ、こういうことは」
「尽八のそういう男気好きだなぁ」
「いくらでも惚れ直すといいぞ。この山神、ファンの性別にとやかく言う男では」
「おまえらいい加減にしてくんナァイ!?」
「あ、靖友が怒った」
「短気だな荒北」
「ぶっとばすぞマジで!!」

 いい加減ぐだぐだと回り道をされるのも面倒だと、荒北はすぐ横の地面に叩きつけるようにしてスプレー缶を置いた。で? と促す視線はまさしく元ヤンのそれであったが、東堂が真面目に話をしていると渋々ながらにでも理解している故の行動だった。東堂が真剣に話をするときは相手の目を真っ直ぐに見る人間だと、荒北はこの一年の間にすっかり理解している。こちらが視線を外しても東堂がこちらを見ているのならと、荒北はその深い群青色を半ば睨むようにして見返した。

「この頃おまえが、」
「あァ? オレが?」
「どこか……神妙な顔つきをしていたから。気にかかってな」

 言いづらそうにしていた先ほどとは打って変わって、東堂ははっきりとした声でそう告げた。ほんの少し目を横にやってみても、新開は刷いたような笑みを浮かべてチェーンを拭いているだけだ。あちら側に話は通っているらしい。吹き抜けた風に、カチューシャからこぼれる東堂の前髪がふわりと揺れた。一呼吸置いてから、それで、と荒北は促すように顎を引いた。

「別段心配をしたというわけではないが。気づけばぼんやりとしていることが増えたし、その期間ももうしばらくになるし、見ていればどうもおまえだけでは解決できないようだし、かといっておまえは誰かに相談しようと思うクチでもないだろう。これはオレのお節介だ。余計な世話だと切り捨ててもらって構わん。ただ、思い悩むことでもあるなら、何か助言のひとつでもと、そう思ったのだよ」

 完全に手を止めた東堂は、それで全部だとでも言いたげに口をつぐんだ。新開がメンテを続ける音だけが響く。
 荒北には東堂の言葉に余計な世話だと一蹴してやるだけの矜持があった。理由もあった。荒北は自分自身が誰か他人に頼るようには出来ていないと知っていたし、何よりも今気掛かりであることは己のみで考えるべきことだと思っていた。だからこそ何でもないとでも言ってごまかそうと口を開きかけ、一瞬だけ迷って東堂の眼差しを見返した。荒北の知る東堂は、誰よりも自己中心的に生きながらも、その実誰よりも視野の広い人間だった。興味のあるものには一途に取り組むし、興味をそそられないものに対しては酷なまでに遮断する。その東堂がここまで気に掛けるということは、荒北が自覚しないほど長い時間、物思いに耽っていたということだ。舌打ちがひとつ漏れて、荒北はビアンキのフレームに触れた。自然と視線がちぎれて少しだけ安堵する。勢いのない会話は苦手だった。置いていた布を手に取ると、東堂がいよいよ不満げな声をあげた。

「荒北、」
「っせーな」
「うるさくないと何度言えば分かる!」
「そういうとこがうっせーんだって」
「靖友」
「今度はてめぇか」
「寿一のことだろ?」

 かちゃん。ビアンキのペダルが半周まわって、それでようやく荒北は息を吐きだした。時計の針はすでに夜遅くを示している。抗う理由もないように思えて、誘導じみた問答を断ち切るつもりで取り上げた布をもう一度地面に置いた。話があるなら聞くと態度で示すように座り直す。東堂はいささかの逡巡のあと、フクは、と新開の言葉を引き継いだ。

「フクはおまえには人一倍厳しく接しているようだから。言わずもがなと思うが、フクはそれだけおまえに期待しているのだよ」
「んなこととっくに知ってるけどォ」
「これだけ自転車を続けたおまえに、野暮なことだとは分かっているが。エースのアシストを務めるということは、一朝一夕で叶うものではない」
「あっそう。それで?」
「……おまえ自身は気づいていないのかもしれんが、荒北おまえ、この頃よくフクのことを見ているな」
「は、ァ?」

 唐突に出された福富の名前に、荒北はいよいよ怪訝な顔を隠さずに語尾を上げた。焦らすように回り道をされた指摘は荒北の予想を大きく外れ、ただ荒北の意図する真意のほぼ中央に転がり落ちる。今更ごまかすつもりもないがと眼光を鋭くする荒北に、今度こそ東堂が少しだけ怯むように体を引いた。

「オレが福ちゃんのこと見てたら悪いってわけェ?」
「そうは言っていない。何が気掛かりだ?」
「は?」
「フクに言えないことを、今ここで言う気はないか?」

 荒北の細めた目に、光が僅かに揺れる。福富に言えないこと。まさにそれだと、頭の隅で小さな声が呟いた。そう仰々しいことではない。ただほんの少し、聞いてみたいことがあると、荒北にとってはそれだけのことだった。それだけのことが叶わずに、ここ最近の日々をぼんやりと過ごすほど、荒北にとって福富は大きな存在だった。彼に負けたくないと思った。彼を追い越したいと思った。彼を追いかけたいと思った。彼と並びたいと思った。福富のために、彼の栄光のために、そしてもう一度、自分自身の栄光のために、走ることができたなら、と。
 隣にある影と、見返した瞳。福富とは中学の頃から付き合いのある新開と、入学式よりも前から部活に参加していた東堂だ。入学してから少し時間のあった荒北よりは、余程福富について知っている。それからのことなら負ける気もしないが、如何せん荒北にとって、福富は未だによく分からない鉄仮面のままだった。全てを理解したいと思っているわけではない。ただ、ほんの少しでも、憂鬱な気持ちが薄れるのだったら。息苦しいような気がして、荒北はそっと手を握った。

 膝を立てて、その上に肘をついて顔を覆う。ぼんやりと佇むような月が憎らしい。まるで福富のようだと反射的に思考する自分まで忌々しく思えて、耐えきれずに目を閉じた。まぶたの裏側に浮かぶ仏頂面はまさしく鉄仮面そのものだ。それでも心にはひとつ波紋が広がって、それはゆるやかに広がりを増した。まるであの日、与えられた世界のように。
 くだらないと思うことは簡単だった。こんな無駄なこと、考えている場合でもない。今年は福富のインハイメンバー入りが予想されていた。ならばその金色を運ぶのは自分で無ければならない。そのために、今いるエースアシストよりも速く強くなることが求められていた。無駄なものは全て切り捨てなければ自転車は速くならない。けれども、今の荒北にとって、これ以上捨てられるものは存在しなかった。身軽な体にぶら下がるほんの少しの気掛かりは、まさしく福富に投げかけたいものだったからだ。ふたりぶんの視線を受け止めながら、笑わない鉄仮面に向かって、荒北は呟いた。笑っちまう。なァ福ちゃん。

「……オレは福ちゃんのもんだけど、福ちゃんは絶対オレのもんにはならねェんだよなァ」

 囁くような声は夜に溶け込み、東堂と新開の鼓膜をわずかながら震わせた。
 新開にとって、福富という男はひたすらに純粋な人間だった。強さを求め、速さを求め、望むもの全てを手にしようと貪欲に努力を重ねる男。傍にいると、少し自分と似ているようで嬉しくなる。ただ、強欲ともいえるその彼が、去年の春先にひとりの同級生を引き連れて部室を訪れたのは、新開にはほんの少し驚くべきことだった。寿一って、人間にも興味あったんだ。ともすれば馬鹿にしていると誤解されそうなからかいに、一年前の福富はにこりともせずに頷いた。あいつはオレのチームで走る。おまえと同じように。
 くすぐったいような信頼に、どんな男かと興味がわいた。そして今も、面白い、と思う。新開は愉快そうに口の端を持ち上げた。

「靖友はいろんなこと考えながら走ってるんだな」
「こんぐれェしてねェとあの鉄仮面の前なんか走ってらんねんだヨ」
「オレなんか、寿一と走ってても前のやつを喰らってやろうってくらいしか考えないけどな。尽八もそうだろ?」
「そうだな……山があれば、誰よりも先に頂上へたどり着くこと、くらいだろうな。隣にタマムシがいればそのことも考えるが、それも込みだろうし」

 つい最近負けたばかりだという他校の選手を思い出して、東堂は少しだけしかめ面になる。誰にも譲る気のなかった山頂を無名の選手に取られるなど箱根の山神の名折れだと嘆きに嘆いた記憶はまだ鮮明だ。すぐに開催されたヒルクライムレースでは東堂が勝ち星をあげたが、そのすぐ後ろには例の緑髪がいた。おそらく次も同じだろうと、東堂はなぜか確信に近く予想している。
 自転車競技はチーム戦だが、ひとりひとりが特性を生かすという点では個人戦でもあった。スプリントが得意な新開と、クライムが得意な東堂。それぞれに長けたステージがある一方で、と東堂は密かに思う。荒北は特に、アシストに長けた選手だった。自分自身がテープを切るのではなく、後ろに引いたエース、福富というたったひとりの揺るぎないエースが表彰台の中央にあがるために、そのためだけに荒北は全てを振り絞って走っている。そんな印象だった。誰しもが上がりたがる表彰台に、荒北は興味がないとでも言いたげで。デビュー戦や後ろがチギられたレースではやむを得ずといった風に、それ以外では表彰式すらも嫌がるようなそぶりを見せた。
 おかしな男だと、東堂が思うのはそんなことだ。

「フクに所有物呼ばわりされるのがいやなのか?」
「そういうんじゃねェヨ。それは、まァ、たまにどうなのォって思うけど、納得してるっつうか」
「寿一は靖友のこと、完全に自分のもんだって思ってるよなぁ」
「……荒北、いやならいやだと言った方がいいぞ? 自分の身は大切にしろ」
「別にいやじゃねェって言ってんだろバカチューシャ」
「カチューシャを馬鹿にするな荒北!」
「馬鹿にしたのはそっちじゃねェヨボケナス!!」

 怒鳴るついでに手近にあった用済みのスプレーをもう一缶東堂に向かってぶん投げる。良い感じに的らしくさらされた額にパカーンと当たって、ヒュウ、二度目だな靖友! と新開が荒北に向かって親指を上げた。美形の額になんてことをという泣き言は耳に入れないように心がける。何でこいつ何度投げても当たんだと思ったところで、荒北には東堂の思惑など分かるはずもない。少し赤くなった額をさすりながら目尻に涙をにじませる東堂が、ふくれた顔ととがらせた唇で、拗ねたような声を出した。

「おまえがフクのものだというなら、ずっとフクの所有物でいてやればいい。肩書きがいやだというなら理解できるが、それでおまえは満足なのだろう?」

 ビシッと向けられた指をどっち方向に折ろうかと荒北が考えた一瞬で、元気を取り戻した東堂がワッハッハと高笑いをする。馬鹿にした響きではなかったが、荒北のこめかみに青筋をたてる程度の不愉快さはあった。勢いづいて立ち上がった東堂は、なあ新開と言わんばかりに大仰に手を広げ、上からの鋭角を保って再度荒北に人差し指を向けた。

「欲張りさんめ」

 指どころでなくあのぴっかぴかのリドレーも真っ二つにしてやろうと頭の隅で決意した荒北を宥めるように、新開が柔らかな声でははっと笑い声をあげた。その声が何かを解した風であったから、荒北は立ち上がりかけた腰を再び冷えた地面におろすことになった。訝しげに見る荒北の視線も気にせず、新開はただ愉快だと言わんばかりに腹を抱えている。何かのツボに入ったらしい。何発でもお見舞いしてやるとスプレー缶を掴んだところで、新開はようやく悪い悪いと片手をあげた。「……何がおかしんだヨ」地を這うがごとくの低音を響かせても、この一年で慣れきってしまったふたりには何の意味もない。今にも唸りだしそうな荒北を、新開は「らしいなあ、と思って」と未だ余韻を残す口を片手で隠しながら柔らかく見やった。

「欲しいものは求めないと手に入らないぞ、靖友」

 そんなこと分かってると返せなかった一瞬に、荒北はまるでひとつの答えを得たような気がした。





***





 
 寮に戻ると、ちょうど部屋の前にいたらしい福富を東堂が引き止めているところだった。新開はすでに風呂へ向かったようだ。小走りに帰って行ったと思ったら何をしてるんだこいつはと、何やら得意げに両手を開いているカチューシャ頭を横目に見る。さっきの今では福富と話す気など起きず、その後ろを通り過ぎようとした荒北は、目的半ばで己を捕まえた手に口の端をひきつらせた。

「……ンだよ東堂、オレァ急いでんだヨ」
「そんなことは知っているとも。オレも急いでいるからな。それはそうと、フクに話があるんだろう?」
「はァ!?」
「無いのか、荒北」
「えっ、いやそのさァ、あると言えばあるけど、ないと言えばないっつうかァ」
「なら残れ。東堂は早く風呂へ行ってこい」
「了解だとも!」

 隣の自室へ引っ込んだ東堂はまとめてあった風呂セットを持って再び戻り、荒北とすれ違いざま「上手くやれよ」と一言残して風呂場へと駆けて行った。上手くやれよってなんだよ。あれがどうそれしたら上手くいったってことになるんだよ。突然のことで混乱した荒北は脳内で東堂とついでに新開も数発ずつ殴って、それでようやく普通の顔をして福富を見ることができた。福富はそんな荒北を怪訝そうに見るでもなく、少しだけ首を傾げてやや強引に荒北の言葉を待っていた。福ちゃんあのねェ、促すってもうちょっと威圧感ないもんだヨ。オレすっごい話しづらいヨ。カワイイナァと笑ってしまいそうになる口元を引き締めて、荒北は先ほどの時間で思ったことを、端的に伝えようと言葉を探した。

「あのねェ福ちゃん」
「む」
「オレ、オレさァ、福ちゃんのために、絶対エースアシストになるから」

 福富はただ静かに荒北に向かい合っていて、言葉の上手くない自分の曖昧な意思を酌もうとしてくれているようで、荒北はそれだけで胸がいっぱいになる思いがした。結局のところ自分は福富の傍にいられれば十分で、彼の先を走り、一番先にゴールに向かって彼を送り出すことが出来ればそれで十分だった。けれども、最後に落とされた新開の言葉が、どうしても心に引っかかる。欲しいもの。求めなければ、手に入らない。オレがエースアシストになる代わりに、手に入れたいと望むもの。

「だから、オレ、……福ちゃんからも、何か欲しいヨ」

 汗のにじむ手をぎゅっと握って、荒北は精一杯の勇気でそう告げた。彼自身が欲しいのだと、おそらくはそういうことなのだろうと、曖昧ながらも気づいていた。けれど、それを明確に言葉にするにはまだ一歩が足りなかった。まだ隣に立てているわけじゃない。今の自分に相応しいものでいい、福富から何かを与えてほしかった。物じゃなくてもいい、言葉だけでも、きっとオレは満足する。急いた気持ちで唇を噛んだ荒北に、福富はほんの少し驚いたように目を瞠った。あ、表情、と荒北が思う間もなく、福富は時折見せる真剣なまなざしで荒北の瞳を貫いた。王者の貫録だ、と荒北は思う。この目に魅入られたときから、きっとオレはオレのものでなくなった。荒北、おまえは、と福富の低い聞きなれた声が、静かな廊下に響いて溶ける。

「おまえはオレに、最高のアシストをくれた。ならばオレは、おまえに最高のエースを贈ろう」

 はっきりとした宣言だった。まだあげてないと野暮なことを言うことも出来ずに、荒北は少しだけ俯いた。何でこの鉄仮面はそう恥ずかしいことを真顔で言えるかなァと悔しげに唇を歪ませて、それでもなお抑えきれない歓喜に拳を開く。

「……あんがとネ、福ちゃん」

 相貌を崩して笑う荒北に、福富は満足そうに頷いた。その表情に胸のうちが満たされるのを感じて、荒北はただ、こんなんでよかったんだと安上がりな自分に苦笑した。風呂に行くなら準備をしろと言う福富もいつもの入浴袋を持っていて、待っててくれたのかなァと思うともういっそ抱きついてしまいたくなるくらいのくすぐったさを感じる。目の前を行く背中は自分が追いかけてくることを微塵も疑っていない。
 たったひとり認めたエースの背中を、荒北もまた、満足気な笑みで追いかける。

 信頼されることの重さを、温かさを、じんわりとにじむ幸いを、ようやく、また、ここから。
 


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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