真っ暗なコンクリの上、スーツを着て自転車(愛称:フィナーレ)の鍵をかけたその時の状態のまま、私は硬直していた。まるで真冬の樹木のようだ。真冬じゃなくてもカチンコチンだって? そこのあなたにはこの凍りついた真冬の樹木をプレゼントしよう。オブジェになったあなたも素敵よ。ちなむ必要など何もないが念のため、さっきも言ったが服は着ている。
 今の事態に何も関係ないそんなことをつらつらと考えながら、意を決して振り向いてみた。そうっと。おそるおそる。

 ――トンネルを抜けると、そこは自転車ドミノたちの達成感でした。

 違う。落ち着け私。例え私がフィナーレを降りて、鍵をかけようとした瞬間私のこのなんとも言えないお尻が隣の自転車に接触、その自転車もお隣に接触、そんな風にしてコテコテな自転車ドミノを繰り広げたからといって、まだ慌てるような時間じゃない。爽やかな表情で時計を見る。現在23時前。騒音被害で訴えられても勝てる気がしない。ご近所さんたちすみません。それにしてもここの住人多すぎだろ。チャリ何台あるんだちくしょう。全てのチャリにごめんなさい。
 半分ほど涙目になりながら隣の自転車に手をかける。鞄はフィナーレの籠なので両手は空いているが、いかんせんドミノ倒しの一番上。持ち上げづらいことこの上ない。加えて反対側には一台と言わず何台でもより取り見取りに自転車がへち倒れている。つまり全ての自転車を腹筋のみで持ち上げなければならない。私のこの貧弱な腹筋で。助けてハニー。こんなぷにぷにの腹筋で一体何が持ち上がるというの。

 半ばやけになった私がふぇぇと言いだす直前、少し離れた場所で扉の開閉音がした。チャッタラッタターン! 野性の住人が飛び出してきた! 言うとる場合じゃない。万が一自転車を使うタイプの住人だったらどうしよう。ふぇぇ。悪いのは私じゃなくてこのお尻です。不審度が増した。いっそ潔く殴ってくれ。
 中腰の不審者二重丸な体勢のまま断罪を待っていたら、「……ミズ?」と控えめな声が私を呼んだ。正確にはよく分かっていなかったのだが(ミズ? 水? 私液体?)、とりあえず今この辺りには私しかいなかったので。あとこの声は私もそれなりに知っていたので。錆びついたロボットのごとく首だけを肩越しに振り向かせたら、そこには予想通り私の見知った、ジーンズにシャツというラフな格好の青年が、目をぱちくりとさせて立っていた。

「……火神さん」
「……こ、こんばんは、です」
「こんばんは。どうぞお構いなく」

 俺のことは構わず先に行ってくれ、アメリカ式の死亡フラグを立ててみたところで死ぬのは私の社会的なイメージとか印象とかなんやかんやとかそういうやつである。大丈夫、私以外に被害はない。せめてもの償いに自転車を直させてください。驚きの余りかたまっている火神さんに半泣きでそういったら、彼はふたつほど瞬きをしてから、慌てた様子でアパートの入口の階段を降りてきた。呆けている私から斜めになった自転車を取り上げて、空いた両手に携帯電話をぽんと乗せる。

「それ、持ってろ。……ださい」

 照れくさそうな顔で微妙な敬語を使いながら(一瞬ダサいと罵倒されたのかと思った)、私をさりげなく数歩後ろに立たせる。その手のひらも腕も私に触れることはなくて、こ、これが米国紳士……と見惚れてしまったのはご容赦願いたい。独り身の寂しい喪女だからね。♂に優しくされると無条件に惚れるところまでイってるんだね。ただし独り身は私だけだ。ハニーがいるからさみしくないもん。帰ったらワインかっくらって泣きながら寝よう。
 私が一人今夜の予定を決めたくらいの短時間で、火神さんはぱたぱたと要領よく自転車たちを逆再生していった。片手で持ち上がるママチャリ群。すごいとしか言いようがない。しかもそれを苦も無くやってしまう、その背中にもう一度見惚れてみた。若い子の背中って良い……いやそういくつも変わらないけど。素敵な子だ。

「っと……これでいいか? ですか」
「あっ、はい! その、ありがとうございました」
「My pleasure.」

 驚いたまま携帯を両手で握りしめてお礼を言ったら、火神さんは片手を腰にあてて無邪気な笑顔でそう言った。完全ネイティブ発音。正直に言おう、イケメンにもほどがある。誰だよ雰囲気イケメンとか言ったの。私だ。火神さんは完璧な、中身イケメンだった。

「仕事帰り、ですか?」
「そうです。ちょっと長引いちゃって」
「Nice job. Take a break.」
「……ありがとうございます」

 えへえへ。帰国子女のイケメンに労われるというのも悪くない。何度お礼を言っても足りないくらいににやにやする。いやあイケメンですね火神さん。うふふ。なんでこの人あんな芸能人と付き合ってるんだろう。色惚けきった頭で考えてみる。黄瀬涼太と私とその他有象無象。うん、全くもって敵う気がしない。あはは。ちくしょう。イケメンとイケメンがくっついたらこんなモブ丸出しな喪女に太刀打ちできる余地などないだろうが。破滅しろ。主に私の煩悩。

「ミズ?」
「アッはいすみません正常です!」
「なら、いいんですけど」
「あの、えっと、火神さんはこれからお出かけですか?」
「いえ」

 心配そうに覗きこまれていた事実を揉み消すようにして聞けば、火神さんは困ったような笑顔になって首を振った。この顔は知っている。確実にあの男関連の顔。私は知っている。

「あいつが飲み会から帰るって言うんで。外で待ってないと拗ねるんです」

 ンな程度のことで拗ねんな!! と脳内のあいつ、つまり黄瀬涼太に一発ビンタをかましてやってからお愛想のようにあははと笑ってみる。そうなんですか〜大変ですね〜迎えに来いと言わないだけ遠慮してるんですかはあそうですか。私ならこの時間飲み会だろうがなんだろうが先に寝てますけどね。そういうところがいけないんですかね。尽くす系男子を目の前にしてノックアウトするズボラ系女子。神様今すぐこの人と性別いれかえてください。これ確実にエラーです。

「……火神さんは」
「? はい」
「どうして、ここに引っ越してきたんですか?」

 目的を達成してしまって手持無沙汰になっても、なぜだか帰りがたくてそんなことを聞いてみた。どうしてこちらにいらっしゃったんですか、とは聞かない。敬語があまり得意でなさそうな火神さん。ポケットに携帯を押しこんで(あれはきっと私を下がらせるための口実だったんだな、と思ったらまた一段とイケメンに見えた)、少しだけ考える素振りをする。その横顔すらイケメンである。というか会話をするときにここまで真っ直ぐに目を見られると多少気恥ずかしい。こちとらコミュ障だからね。視線は合わせるものではなく逸らすもの。ドゥーユーアンダスタン? 頭の悪さが露呈する呟きはよしておこう。火神さんは口ごもりながら、言葉を選ぶようにして口を開く。

「オレの、というか……オレもあいつも、実はここが家ってわけじゃなくて」
「? ご実家が別にあるってこと――すみません、私、失礼な話を」
「や、その、大丈夫です。嫌なことは言わねぇから、です」

 考えながら困ったような表情をしたから、言いたくないことなんだと判断して即座に頭を下げた。そんな私に手を振って、火神さんは笑ってくれる。この人はよく笑う人だ。そんなことを思った。火神さんだって人間なんだから怒ったり悲しんだりするはずだけど、でもきっと、いつも笑っていてくれるんだろうなと思わせてくれる。寂しがり屋の黄瀬涼太が懐くのも分かる話。

「オレの家が東京で、あいつの実家は神奈川で。しばらくはオレの家にあいつが通ってた、です。でも、どっからバレたか、カメラマンに写真撮られて。あることないこと雑誌に書かれて、それで、あいつがちょっと壊れちまったというか、疲れちまったみたいで。オレの家はもう来れないから、じゃあ一緒に、会うときのために家探すかって」

 火神さんが照れくさそうに話すから、私も表情が重くならないように少しだけ息をとめた。家の場所を聞いてみたら、お互いの家はそんなに遠くないのに、ここからは随分と遠い場所の地名が出てきて目を開く。火神さんは一人暮らしだったのか。道理で家事ができる主夫系男子。壊れた、の内容は聞かなかった。そこまでは踏み込める仲じゃない。

「疲れたんなら、離れればよかった、ですけど。でもやっぱ、無理だったから。そしたらあいつがいきなりカミングアウトしちまって、なら遠慮なく一緒に生きようかって、そういうことになった。です」
「……なるほど」

 なんて言っていいか分からなくて、火神さんのきれいな赤茶の瞳を見ながら、火神さんはあの人がとても好きなんですね、と言ってみた。火神さんは初めて恋をした中学生みたいに無邪気な顔をして、あいつと一緒に生きれるならなんだっていいくらいには、好きです、と笑った。その顔がとても素敵で、恋ってこういうものだったと思い出せたような気がする。私が最後に恋をしたのはいつだったか。すでに思い出せない。おかしい、私の初恋のきらめきはどこへいったの。カムバック青春。

 甘酸っぱい恋に触れて心が浄化された半面、淀んだ禁忌の箱をこじ開けかけた私が、じゃあそろそろ、と言いかけたところで火神さんの背中に思いきり飛びついた影があった。その勢いがどのくらいかと言うと、火神さんの目の前に立っていた私が「おぎゃーん!!」というなんとも無様な悲鳴をあげたくらいである。件の火神さんは「うわっ!」ですんでいるというのになんだその雄叫び。いやそんなことはどうでもいい。

「なんっ、……お前か!!」
「かーがーみー! ただいまー!!」

 多分同じくらいの身長のくせに全体重を火神さんの背中に乗せて、今まさに話題の中心にいた黄瀬涼太その人がザ・降臨した。ものすごい勢いだったのに転ばない火神さんすごい。腹筋がすごいのか背筋がすごいのかはともかくとして、おそらく向こうの道を曲がった瞬間から全力で走っていたに違いない黄瀬涼太の隠密もすごいなと遠い目になる。だってこの人の足音全然気づかなかった。私は未だに心臓が張り裂けんばかりだというのに。こやつ何者。

「それはいいからまずはどけ!!」
「た・だ・い・ま」
「……お帰り」
「よし!」

 おんぶの要領で火神さんの首元にほっぺをすりすりしながら脅しにかかる黄瀬涼太は、なんというか、控えめに見ても幼稚園児のようだった。母親に出迎えの挨拶をねだる幼児かお前は。脳内でだけでツッコミを入れつつ、火神さんにべたべたまとわりつく黄瀬涼太を冷めた目で見る私。何だこの状況。

「あんねー、今日ねー、くろこっちがねー」
「ちょっと待て、話聞くから今は降りろ」
「なんで。やだ」
「……すみません、ミズ」
「へあ!?」
「にゃ?」

 突然申し訳なさそうに(かつなんかちょっと顔が引きつってる)火神さんに言われて、私はまたも素っ頓狂な声をあげてしまった。当然こっちに気づいた黄瀬涼太(何今のかわいこぶった声かわいいだろうがこの野郎)は、お前今の今まで私を認識してなかっただろと思う間もなく、火神さんの背中からすとんと降りて私の前に立った。さっきまでのべろべろな表情はたちまち消えて、私も見慣れた笑顔になる。

「オネエサンいたんスかー! ゴーメンナサイ、恥ずかしいとこ見せて」
「は。や、大丈夫です私すぐ帰りますので」
「お仕事帰りっスか? お疲れ様です」
「これはどうもご丁寧に」

 ポケットに手をつっこんだままご機嫌に笑う黄瀬涼太。お酒を飲んでもスイッチのオンオフが出来るとはなんとも器用な技をお持ちで。他人用の笑顔をはりつけた黄瀬涼太でも、雑誌やテレビの中よりも幾分かは柔らかく見えた。こっちも思わず敬語になるわけである。何度でも言うが悔しいほどにイケメン。でも私は火神さんの方が好感が持てる。ハハン。イケメンなだけじゃこの世の中渡っていけないんだぜ。ざまあみろ。だがしかし火神さんはこの黄瀬涼太を好きだと言う。イケメンなだけでも世の中渡っていけている。生まれながらにしてスタートダッシュの速度が違う。ざまあみたのは私の方だった。あはは。凡人代表の私は笑うしかない。眉毛抉れろ。

「そいえばハニーくん元気っスか?」
「元気も元気です。ご飯食べて走り回ってお水飲んでほぼ一日寝てます」
「それは何よりっス」

 人懐こそうに目を細める黄瀬涼太は、どう見ても酔っているようには見えなかった。まさしく通常運転。気の置けない相手がいる時だけ甘えたになるとかそういうタイプなのだろうか。なんとも母性本能をくすぐる特性だ。甘えたな男ってモテなそう、と遠い目になりながら思い浮かべていたのは昨日見たばかりの若者向け雑誌、『年下の甘えた男子に胸きゅんガールズ特集!』 ちょっと意味が分からないと思っていたがそういうことか。ということは火神さんの方が年上なのかしら。いやでもあれって女子向けであって男子向けではないような気が。知ったこっちゃねーわ。ははは。
 乾いた笑いを零す私の思考回路がショート寸前になりかけたとき、黄瀬涼太が突然思いついたようににぱっと笑顔になった。

「うちのハニーも元気っスよ!」
「あ、知ってます」

 得意げな顔で火神さんの襟元を引き寄せた黄瀬涼太に、私は至って真顔で返す。全然通常運転じゃねぇ。酔ってんのか? 酔ってんのか。なら仕方ない。んなわけあるか。俳優といえども殴りたい。

「うちのハニーもよく食べるし」
「そうですね」
「あとよく走る」
「そうですね」
「耳は長くないっスね!」
「そりゃそうだろですね」

 抱きついたり耳をひっぱったり、目の前でやられると少なからずダメージをうける、いわゆるカップルのじゃれあいというやつを見せつけられている。いや見せつけてるのは黄瀬涼太だけだけど。されるがままの火神さんの目は完全に諦めている目だ。ホモの絡みをウキウキウォッチング、あっちこっちそっちこっちいいホ〜モ〜♪ じゃねーよ。見渡す限りのホモとかやめろ。さすがのタモ子でも泣くわ。

「今日はくろこっちとあおみねっちとみどりまっちと飲み会だったんスよ」
「さようでございますか」
「かがみは来ませんでした」
「そのようですね」
「ちょっとお前黙っ、」
「うるさいバカガミ」

 素面みたいな顔して意味不明なことを言うのはやめてほしいなあと思ったタイミングで切り込んできた火神さんのツッコミを一刀両断して、黄瀬涼太が火神さんの両耳を思い切り外側に伸ばしだす。酔っぱらい・ザ・フリーダム。2対1なのに何という惨状。

「かがみは一緒に飲み会行ってくんないんスよ」
「なんでですかねぇ」
「家にいるときは一緒に飲んでる、です」
「飲み会だと行ってあげないんですか?」
「や、こいつ割と中学からのやつらと飲むのが多くて」
「え、じゃあ火神さんは」
「オレが最初に会ったのは高校のときです」
「相手してくれよイケメンくん!」
「うわびっくりした!!」
「かがみかっこ悪かったっスね」
「お前ちょっと声小さく」
「か〜が〜み〜なぜなくの〜」
「泣いてねえし!」
「つかぬことをお聞きしますけど、火神さんとこの方って年同じですか」
「そ、そうだ、です」
「かがみのかってでしょ〜」
「マジで泣きたくなるからやめろ」
「苦労してますね火神さん」

 素面のときに酔っぱらいに絡まれたときほど、言語コミュニケーションなんて何の役にもたたないということを思い知るときはないだろう。ちょいちょい挟まってくる黄瀬涼太の理解不能な呟きやら歌やらが最早ノイズレベルになってきた。というか緊張の糸が切れきった感じ。背中にべたべたしていたさっきと位置が変わっただけで、抱っこしろとでも言いたげに火神さんにひっついてぎゅうぎゅう力を入れている。抱っこて。どう見てもお前と火神さん身長同じくらいだろ。熱くなれよってか。無理だろ。さすがのファイアゴッドにも限界はある。
 それでも叩き落としたり邪魔だと言ったりはしない火神さんが、黄瀬涼太は好きなのだろうなと思う。構ってちゃんか。私がハニーにべたべたするようなものか。再三思うけど私は無視されるのに黄瀬涼太は無視されない。世界はこんなにも不公平である。まあハニーはツンデレだからね。愛情の裏返しってやつだからね。こんなことでくじけるようではハニーを愛しているとは言えない。ハハン。

「……じゃあ、この距離ですけど、お気をつけて」
「Thanks. ミズも、ハニーによろしく、です」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「Good night. Sweet dreams.」

 別れ際までイケメンな火神さん。普段は見ない理由も、逆に週末にはよく会う理由も、ついでに黄瀬涼太が火神さんに甘えたな理由もなんとなく分かってしまった。抱っこちゃん人形のような黄瀬涼太の背中をぽんぽんと叩く手だとか、名残惜しそうな声で家入るぞ、と言う声だとか。

 自分の家の鍵を開けて、ハニーにただいまと声をかける直前、流れ星のように零れた声が私の鼓膜に静かにとけた。

「……オレ以外のひとと仲良さそうにしゃべんないで」

 寂しがり屋のスーパースターは、穏やかな愛の中心で、今日も不器用にきらきらと光っている。





オマケ





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