この手と愛を独り占めしたいの


不意に視線をあげた氷室は、窓の外がもうすっかりと暮れてしまっていることに気がついた。部屋に入ったばかりの頃はまだ空も薄いブルーだったはずで、どれほどの時間ここにいたのだろうと驚いた表情になる。かちり、小さく呟くような音がして、そうしてああオレの意識を引き戻したのはこの音だ、とすぐに笑顔になった。

「……幸男さん」

口を両手で覆って、わざと小さな声で言ってみる。囁く声は空気にとけて淡く消えて、氷室はまた少し笑ってしまう。唇につけた親指がもう一度かちり、とボールペンの背中を押す。氷室は、考え事をしているときの、笠松を見ているのが好きだった。

口を覆っていた手のひらを握って、そのまま肘をついてみる。氷室がいつも笠松を見ているときの癖だ。右目で見るクリアな視界の笠松も、少しだけ雑音がかかったような世界にいる笠松も、そのどちらも氷室は好いている。考え事をするとき、ゆっくりとペンの背中を押すのが好きだ。普段しわが寄っている眉間が平たくなって、穏やかな瞳で深く息をする、その姿が好きだ。胸がぎゅっとする。

「……ゆきお、さん」
「――…ん?」

今度ははっきりとその名前を呼んだ。気づかずにいてと乗せる音は決して届こうとはしないのに、振り向いてほしいとかすかにでも滲ませた声は必ずこの人の瞳を呼ぶ。笑ってしまう。あまりのあたたかさに、あまりのいとしさに。

「課題終わっちゃいました」
「おう。早かったな」
「幸男さんが丁寧に教えてくれましたから」
「お前熱心だから教え甲斐あんだよ。お疲れな」

時折確かめるように押していたペンを机に置いて、笠松がそっと立ち上がる。この人は見かけや情熱とは裏腹に、動作がとても静かだ、と氷室は思う。そうやってひとつずつ、笠松という人間を知っていく。まぶしさにすがめるように目を細めた。

「どこ行くんですか?」
「ご褒美やるよ。紅茶と珈琲、どっちが好きだ」
「……コークが良いです」
「うるせぇ帰国子女。茶にすんぞ」
「幸男さんの淹れたのだったら、緑茶でも好きですよ」

にこ、と笑う氷室に、笠松の眉間にいつも通りしわが刻まれた。いつしか「緑茶って味がしなくてよく分からないんですよね」と言った氷室に思い切り蹴りを入れたことを思い出したからだ。その言葉を嘘だと言うつもりはないが、人の味覚がそうそう変化するとも思えない。嘘くさい笑い方すんなと言ってやりたい気持ちを抑えて、なら、と笠松は腰に手をあてて首を傾げた。

「お前にご褒美やるっつったら、何がいいんだよ」
「ごほうび……ですか」
「オレは褒めて伸ばすのは苦手だけど、お前はなんかそうした方がいい気がするんだよな」

努力するやつは褒めてやった方がいいんだ。少しだけ口角をあげて笑った笠松を見上げて、氷室はまたあたたかくなった胸をぎゅっと握った。海の名をもつチームの主将、それならばきっとその海は、どこまでも澄んで遠い光だ。まざりあう気持ちに唇を少し噛んで、机をガッと前に押す。できたスペースに誘うために、氷室は笠松に両手を広げてみせた。

「抱っこして、よしよししてください」
「は?」
「ごほうび。駄目ですか?」

陽泉では割といつも世話をする方で、そうやって年相応に甘やかされる経験がめっきり減った。秋田に来てから、アメリカで火神という弟分に出会ってから、思い出しながら氷室は、オレはずっと甘えたかったのかもしれないと思う。それから、望む通りに膝をついてくれる笠松に、好きだ、と何回目かの想いを呟いた。

「……お前って、思ったより安上がりなやつだよな」

頑張りました、辰也くん。たくさんの尊敬と信頼を一身に受ける笠松の、唯一の恋慕を胸いっぱいにすいこむ。しあわせにやっぱり笑顔がこぼれる。たとえ会える機会は少ないとしても、めいっぱい甘やかされるこんな休日、遠距離恋愛も悪くない。



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