君の熱を教えて


開会式が始まる少し前、赤司に呼び出しをうけた紫原は、陽泉の面々が集まるロッカールームからひとり、廊下に足を踏み出した。ドアを閉める直前、氷室が気づいたように声をかけたが、紫原は言葉を返すこともなくその口に駄菓子を詰め込んだ。今の紫原の頭の中は「赤ちんの用事ってなんだろう、叱られたらいやだな」という思考でいっぱいだったため、それも致し方ないと言える。

先ほど見た地図を思い返しながら廊下を進んでいた紫原の横を、知らない顔が幾人も通り過ぎた。興味のない有象無象だと言うように、一瞥もくれずに足を動かす。紫原の興味をひくものは、新発売の駄菓子と、翌日の練習の内容と、自分を気にかけているという氷室の機嫌と、それから――それから。

「あ、武ちんだ」

廊下を進むその途中、飲料の自動販売機が立ち並ぶ奥まった通路に、紫原はひとつの人影を見つけた。ボタンをふたつ開けたワイシャツ姿、紫原と同じく開会式の始まりを待つ、海常高校の監督・武内源太の姿だった。紫原が嬉しそうに駆け寄ると、武内もそれに気づいて顔を上げる。

「武ちん、ここで何してんの?」
「……相変わらずだな紫原。少し考え事だ」
「考え事? すぐ開会式始まんのに?」

紫原は首を傾げてみせたが、武内はただ大人にしか分からないこともあるんだ、と肩をすくめたきりだった。ふうん、呟く声はどこか不満げだ。

「黄瀬ちんは?」
「呼び出しがあると言って出て行った。遊びではないらしいし、今は待機時間だから行かせた」
「あー、オレのと同じかも。赤ちんの」
「赤ちん?」
「あかしせいじゅーろー」
「……ああ」

洛山の、確認するような響きに紫原も洛山の、と答えてみる。それきりまた黙り込んでしまった武内に、オレには興味持ってくんないんだ、と紫原は内心文句をこぼしていた。武ちんはいっつもそうだと続けることも忘れずに、握った手を見つめている武内を呼ぶ。

「武ちん」
「なんだ」
「前にした約束、覚えてる?」
「約束?」

聞き返した武内に、武ちん先生なのにさっきから質問ばっかり、と少し笑ってから、紫原は武内の前にしゃがみこんでいたずらっ子のような顔で告げた。

「オレが武ちんとこに勝ったら、武ちんの家に連れてってくれるって約束」
「……冗談じゃなかったのか」
「武ちんひっでー! オレ、そんな冗談言うように見える?」
「まず前提からしてどうかと思ってるからな」
「オレにはオレにしか分かんない魅力ってもんがあるんだし」

見上げた顔は教育者のそれで、オレは一度もちゃんと正面から見てもらったことがないと、紫原はやはりこっそりと唇を噛むことしかできない。そのせいで、武内の困ったような表情の中に少しの愛しさが浮かんだことに、紫原は気づかずにいた。手を伸ばそうか伸ばすまいかと開かれた手が、結局もう一度握られてしまったことも。

「武ちんはねー、結構おいしそうだよ」
「……見た目の問題か」
「そうじゃないけどさー」

おいしそうだよ。あったかくてやわらかそうで。声にならなかった言葉を武内が聞き取るはずもなく、急かすように鳴った携帯の着信音に、その気持ちすら消し去るように紫原は目を閉じた。

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