黄瀬涼太という若者に人気な有名俳優とエンカウントした上にもしかしたら傷つけたかもしれない、そんな可能性を考えて昼を越えてもぐるぐるもんもんとしていた。悩みながらも料理はきっちりした。えるしっているか、ひとりぐらしはじぶんでつくらないとめしがでてこない。玉ねぎと冷凍豚肉と卵で簡単うどん。すすりながらも泣きそうになった。ハニー、私どうやら初対面の人を傷つけるクソみたいな人間になっちゃったみたいだわ。泣いてもいいよね。言いながらハニーを見れば、イケメンな横顔が私に訴える。お前が泣いてる場合か。そうよねごめん。うどんおいしい。
 涙ぐみながら食べ切ったうどんの器をシンクに置いて水をじゃーじゃーかけていたら、タイミングよくと言うか悪くというか、すぐ横の玄関からピンポン!とやたら焦ったような音が聞こえた。古めのインターホンを押し慣れていない人の押し方。焦ったように押されるとこちらも焦ってしまうもので、普段はスコープから確認してから開けるはずのドアを、今回に限っては何も見ずにチェーンまで外して思い切りオープンしてしまった。「はいどなたですか!」声と一緒に私も転げ落ちそう。

「あ、あの、隣に越してきた、かがみといいます」

 そこにいたのは、ワイルド系男子。イケメンかどうかのご判断は皆様にお任せします。それでは皆様スイッチオン! イケメン72、好みではないがイケメン22、ノットイケメン6! これはまた微妙なライン。初対面の印象はイケメンというよりデカい。あとガタいが良い。というか今はそれよりも。

「え、お隣さん?」
「はい。ええと、昨日から」
「お隣さんって、どっち側の」
「こっち側です」

 指差されたのは昨日黄瀬涼太を見かけた方の隣、反対側には誰かが入ったような気配はない。かがみと名乗った相手をもう一度見る、年の頃はきっと彼と同じくらい、なんというか芸能人ではない、どう見ても男、きっと、多分、ああ、なるほど。

「それで、あの」
「あっ、ハイ、なんでしょう」
「オレと、もう一人……いるんですけど、その。もしかしたら時々、うるさくなるかもしれなくて。そうなったらすみません」
「ああ。大丈夫です、私の方も結構うるさいタイプなので。こちらこそ、騒がしくさせたらすみません」
「いえ」

 これ良かったらと差し出されたのは小さい紅茶セットだった。カフェインに目の無い私は喜んでそれを受け取って、おそらくはこれきりになるだろう隣人に感謝を述べた。嘘ついたわけじゃないわハニー、騒音被害になるほどはうるさくしてないわ。多分。どこかほっとしたようなかがみさんが、それじゃあと言いかけたとき、ドアを開けて見える方、つまりはかがみさん宅のドアからがちゃっと“もう一人”が出てくる音がした。あ。私とかがみさんの声が重なる。出てきたのは当然、あれだ、三回目のエンカウント、黄瀬涼太。まぶしいほどのイケメン。お前は太陽か。輝きすぎて私までイケメンになれそう。

「かがみー、もう終わった……あれ」
「き、や、おま、出てくんなっつったろ!」
「言われたっスけど。それが?」
「それがじゃねぇよ、おま、……もうちょっとオレと会話する努力をしろ」
「あ、オネエサン、どうも初めまして〜」

 脱力気味なかがみさんの言葉を完全スルーして、三度目ましてのはずの空気をいささかも感じさせることなく、黄瀬涼太がその綺麗な手を私に差し出してくる。えっいいの、人気芸能人の握手とかタダでしちゃっていいの。CDとか本とか買わなくていいの。私のそんな動揺も意に介さず、黄瀬涼太は私の手を勝手にさらってぎゅっと握る。「黄瀬です、よろしくお願いします」きらめく笑顔は無限大。君の瞳は百万ボルト。ほんとに出そうだから困ってしまう。答える私のしどろもどろさといったらない。

「黄瀬……さんって、あの、失礼ですけど、俳優の」
「そーです、俳優の。知ってくれてるなんて嬉しいな」
「いえ、その」

 生の芸能人ってすごい。顔小っちゃくてきれいすぎて怖い。笑うと見える歯が白くてやばい。口角の上げ方がプロ。かくいう私の口角はひきつっている。いつも鏡の前で練習してるのに。ちくしょう。

「さっきは、その、……すみませんでした」
「へ? 何が?」
「え?」

 ここ数時間、部屋の隅の新聞の存在感にぐるぐるとしていたそれを思い切って謝ってみたのに、返ってきたのはそんな言葉だった。握った紅茶の箱がつぶれそう。だめよ私、紅茶は私のライフライン。んなわけあるか。落ち着け。

「黄瀬、お前さっきも会ってんのか?」
「さっき? んー、あー、あ、ちょこっと出たときに見たかもしんない。そんときのことっスか?」
「あ、はい、そのときの」
「別にオレ、謝られるようなことされてないっスけど」
「へ?」

 今度は私がきょとんである。あんなこと言って、あんな顔までさせたのに。ハニー私どうしたらいいかしら。蒸し返すのも申し訳なくて、ならいいです、とひっこめようとした話題を、まさに今思い出しました!という顔で黄瀬涼太が引きずり出す。ああ、頷く声はなんというか、不思議なことに、どこか楽しげで。

「さっきオネエサンにホモだって言われたやつ!」

 まさにピンポン、大当たり。飲み込んだ申し訳なさが噴出して恥ずか死にしそう。予期せぬこととは言え、人様に向かってそんなこと。イケメンよ煮るなり焼くなり好きにして。

「オレが開けた瞬間だったからめちゃくちゃ面白くて、笑うの我慢できなかったから思わず部屋引っ込んじゃったんスよね」
「なんだ、さっき玄関蹲って爆笑してたのってそれか」
「そうそう! いやーなんつーか、すんごいしみじみ言われたの初めてで。あ、もしかしてオネエサン、それずっと気にしてたんスか?」
「あ、いや……まあ、平たく言えば、そうです」
「そんなの気にしなくていいのに。オレがいること知らなかったんスよね」
「そりゃ、お前がこんなとこいるなんて思わねぇだろ。てことだから、あんまり気にすんな、です。こいつそんなんじゃ傷ついたりしないんで」
「はあ……」

 こいつって言うなとかがみさんの肩をどついた黄瀬涼太はきらめく笑顔のままで、ああこれが所謂営業用の顔なんだなあとそれこそしみじみ思った。ほんとに気にしないで、念を押して言われてしまえば否定する気も起きなくなってしまう。芸能人て本性知るとがっかりするもんなんじゃないの。都市伝説なの。少なくとも、目の前にいる黄瀬涼太は、こうしてみると普通の青年だった。超ド級のイケメンなのはともかくとして。そしてその隣に立つかがみさんは、黄瀬涼太がホモだなんて失礼なことを言われたのに、それを気にする様子もない。もしかしてこれ私が気にしすぎてるだけなの。だって今までそんな人たちと触れ合う機会もなくて、だから偏見を持つ以前に偏見を持てるほどそういう人たちのことを知らなくて。それにしたって芸能人。風当たりが強そうな関係を、ふたりは何も気にしていないの。そういうものなの。

 先に戻ってる、と来たとき同様かがみさんを完全スルーで帰っていく黄瀬涼太を見送って、しょうがねえやつだなとため息をつくかがみさん。でも顔は笑っていた。だからきっと、私が気にするようなことではないのだ。きっと。複雑な気持ちでかがみさんを見上げていたら、私の視線に気づいたかがみさんが、ちょっとだけ私を見て、それからやっぱり笑った。

「オレたちが、ふたりで、決めたことなんで。誰に何言われても、大丈夫です」

 それはとっても素敵なことね。心がささくれるような社会を知っているはずの彼らを目の前にして、胸がぎゅっとしてしまう。じゃあまた、と去っていくかがみさんを見送って、私は玄関のドアをぱたりと閉めた。ハニーの傍までよろよろと歩いていく。

 ねえハニー、恋っていいわ。誰を好きになっても、誰に愛されても、あんな風に人を愛してみたいわよね。なんてね。ウフフ。いただいた紅茶を開けて、袋を並べてみた。聞いたことのないメーカーの紅茶だ。どんな味がするのかしらね。ハニーも一緒に飲めたらいいのに。ウフフ。そういえばイケメンのお相手は雰囲気イケメンだったわよハニー。あれも言うなればイケメンの部類よね。イケメンとイケメンで困っちゃうわね。ウフフ。頭の上に花を咲かせながらハニーが寝言をこぼすのを聞いていたら、この家では初体験、お隣さんのやりとりというものが聞こえてきた。思わず黙る。違うわハニーこれは別に断じてそういうわけじゃ。良かったハニーは就寝中。

『…んでお前、先……』
『……うでも……』

 少しの物音と、あと何かを叩く音。手でも払ったのかしら。ちょっとだけ壁に寄ってみる。違うのよハニーこれは断じてどうして起きてるのあなたいつもは話なんて聞いてくれないのに。その目をやめてハニー傷つくわ。

『…が、恥ずかしいこと言うからっ、ん……!』

 何かしらハニー。この壁の向こうで何が起こっているのかしら。そんなに大声じゃない黄瀬涼太の声が、途中でくぐもって聞こえなくなる。さっきの声と色が違うとかそんなことはどうでもいい。途切れ途切れに聞こえてくる声を、脳が勝手に補完する。ホモ補完計画始動。こんなくだらない計画ってあるかしら、ハニー。考えてもみて、黄瀬涼太はこいつって言われるとオレの物宣言されたみたいで恥ずかしくなる、これ誰得情報?

『……愛してる、涼太』

 かがみさんの甘い声。挨拶直後の夕方前、炊飯器のスイッチを入れる音がむなしく響く。場所を移動したようで、それ以降の音は聞こえてこなかった。そう思っていた時期が私にもありました。そういえば知ってる? 上の人が盛り上がってると下の階の住人には声も軋み音も割と伝わるってこと? 恋人持ちは全員アパートから出て行きたくなる情報ですね分かります。喪女だから出て行かないよ断じてね。

 再開したハニーの寝言と、多分どこにも売っていないだろう有名俳優の桃色な声が重なって不協和音を奏でる。私は黙ってコンポを立ち上げ、いつかイヤゲモノとしてもらった般若心経のCDをかけた。流れだす低音。溢れ出す神の後光。そういえばこれ呪術的な意味もあるんだっけ。ついていた歌詞カードを見ながら立ち上がる。うなれ私の壊滅的音痴。叫ぶはひとつ。


 爆発しろ、このリア充ホモ。


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -