未来の約束をするのが好きだ。


長い影を見ながら、がらがらとうるさくがなる車輪の声を聞いていた。冷えたコンクリの上を走る、この乗り物なら氷に足を取られても前部分の運転手が肝を冷やすだけなので、つまりはオレに何の障害もない。リアカーの木に囲まれた中で、敷かれたタオルの上にずるずると身を縮めた。ほう、吐いた息が白くのびる。

「真ちゃーん?」
「なんだ」
「いやね。何してんのかと思って」

オレからだと真ちゃんの頭のてっぺんしか見えないわよ。何がおかしいのか、けらけらと笑いながらペダルを漕ぐ。運転手もとい高尾はいわゆる立ち漕ぎの体勢に入って、リアカーは更に速度をあげた。オレの家へと駆ける。小さくなった世界で空を見上げた。晴れている。オレの心も。

家の前についてリアカーから降りる。オレが振り向く瞬間が好きだと言われたことを未だに覚えていて、いつも意識してしまうオレを知ったら高尾はきっと笑うだろう。笑い上戸なこいつのことだ。オレが殴るまで笑うに違いない。表情に出さないように振り向いて、サドルに跨る高尾を見た。その、うれしそうな、笑顔が好きだ。絶対に言ってなどやらないが。

「じゃ、また明日ね、真ちゃん」
「ああ」

また明日。言えない声を高尾はきちんと受け止めて、またがらがらと音を立てながら離れていく。門から少しだけ身を乗り出して見送った。風で舞い上がる学ランの裾。きちんと前を止めろと言うのを忘れていた。けれど、その舞い上がった黒がどこかあいつらしいと思って、それで満足した。また明日。数時間後の未来の約束。




とある昼休み。弁当を食べている向かいで、高尾はいつものように菓子パンを頬張っていた。もっと栄養に気を遣えと言いたいが、家の事情や都合を知らずに言える台詞ではないと卵焼きと一緒に飲み込んでみる。噛むほどに甘い黄色。あたたかい陽射しを受けて、高尾の前髪が眠たそうに揺れた。

「あ〜腹減ってんのに超絶眠ぃわ」
「食うか寝るかどっちかにするのだよ。というかオマエさっきまで寝ていなかったか」
「いやさ、授業中だから寝ちゃダメだって思うじゃん? 耐えるじゃん? 耐え切れずに寝るじゃん? そういうときって時間無駄にするだけで全ッ然寝れてもねぇんだよな。それでも眠ぃってもうヤバいと思うわけよ、オレ」
「……夜は眠れているのか」
「寝てる寝てる。ちょう寝てる。帰って飯食って風呂いってベッド入ったらバタンキューだもんよ。真ちゃんは寝られてる?」
「愚問なのだよ」

睡眠は健康的な体を維持するための一環だ。そのための人事は尽くす。続けるように言えば、高尾はそっかなら良かったとそのつり目を細めて笑う。オレのことなのにどうしてオマエがそんなに嬉しそうにするんだ。聞けない問いを口の中で転がして、結局きゅうりと一緒に飲み込んだ。伝えたい言葉も聞けない言葉も飲み込んでしまって、オレの中はいつか埋まってしまうような気がした。物欲しそうにしている口にうずらの卵をつっこんで、それも悪くないと思う。今日の空も凪いでいる。

「ん、そういやさ、真ちゃん、今週の日曜って予定ある?」
「日曜……午後練からの日か」
「そうそう。もし良かったら、一緒に買いもの行かね? 午前中。テーピング切れそうだって言ってただろ」

少しだけ考える。テーピングが切れそうだと言ったのは確かだが、それは今持っている分がという意味だった。家に帰ればストックがある。それも人事だ。けれど思い出してみる、そのことを呟いたのは完全にひとり言だった。騒然とした部室の隅で、無くなりそうだな、と何気なく零しただけの。こいつはそれを聞いていたのだろうか。そうなると少し気恥ずかしいような気がした。人のひとり言を勝手に拾うんじゃない。半ば八つ当たりのように思いながら、仕方ないなという体を前面に出して頷いた。

「オマエが漕ぐなら乗ってやらないこともない」
「はいはい仰せの……ちょい待ち真ちゃん、学校でも試合でもない日にリアカー出すの? しかもオレが漕ぐの?」
「嫌なら構わないが?」
「いや漕ぐのは嫌じゃねぇけど……ま、いーや。仰せのままに、真ちゃんさま。じゃ、日曜の朝8時にお前ん家行くから、部活の準備しとけよ」
「言われなくともしておくのだよ」

頭の中の手帳に、日曜日、8時、高尾が来る、とメモをした。日曜日。明々後日。少し遠い、未来の約束。




ある日の放課後。部活。一軍を集めてミニゲームをした。適当に割り振られたチームは目新しく、高尾とも別のチームになった。だからといって気にすることはない。多少の連携のずれはあるが、れっきとした秀徳の一軍だ。シュートを撃つことになんら問題はなかった。何度もパスを受け取っては確かめるように放つ。長いループの間、頭が真っ白になるのが好きだった。

ホイッスルが鳴って休憩に入った。マネージャーからドリンクを受け取って壁にもたれる。冬の汗は不快感が少ない。タオルで頬を拭っていたら、すぐ隣にとん、と同じようにもたれる影があった。誰かを確認する必要もない。

「お疲れさん、真ちゃん」
「ああ」
「今日も気持ちよくシュート決めてたねー」
「人事を尽くした結果だ」
「そりゃそうだと思うけど」
「……何が言いたいのだよ、高尾」

ボトルの飲み口を齧りながら不服そうに言う声が気に入らなくて、自分の持っていたボトルを高尾の頭にこん、と乗せながら返す。高尾はしばらく考えるようにコートを見て、足元を見て、ゆっくり座り込んだ。ボトルが浮く。立ったままボトルをあおったら、視界が天井でいっぱいになった。

「……真ちゃんさあ」
「なんだ」
「ずっとなんて言えないけど、絶対有り得ないけど、嘘でもいいから」
「……ああ」
「卒業まで、オレ以外のPGから、パス、受け取んないで」

おねがい。震えるでも掠れるでもなく、淡々と落とされた声に、そんなのは無理だとは言えなかった。スポーツドリンクの生ぬるい甘さをこくりと飲んで、言葉の意味を考える。

「……、分かった」

違うチームになることもある。試合でどちらかがベンチにいるときもある。いつでもペアで出せと言うのはわがままの許容範囲にならない。なら、いつでも、どんなときでも、オレが認めるPGはオマエだ。同じ場所に、同じ目線で立つことができるのはオマエだけだ。だからオレは、卒業までずっと、たったひとり認めたオレのPGから、パスを受け続けることにしよう。

「……ありがと真ちゃん、だいすき」

へらりと笑う。疲れた、それでもどこかすっきりとした表情だった。この場所で。オマエと。卒業まで。今は遠い、未来の約束。




卒業式の日。体育館の周りに集まったバスケ部の後輩たちは、それぞれ世話になった先輩に群がりながらわあわあと泣いている。懐かしかった。一年の頃はオレたちもああして、同じチームで戦った先輩にすがるようにして泣いた。上の代が卒業するのがさみしいと思えたのは、きっと、このチームに出会えたからだ。このチームで戦えたからだ。そのことを、オレは、誇りに思った。

「いっやーすっげーね、後輩ちゃんたちぼろぼろよ」
「……そうだな」
「あ、真ちゃん、懐かしいなって思ったっしょ。二年前だもんね、あっという間だなー」
「オレはあんなにはなってないのだよ。オマエはぐちゃぐちゃになってたが」
「いやそんなには!! ……なってたかもしんないけど!!」

真ちゃんひどい、この三年間ずっと隣にいた男が、からからと笑う。思い出せるのは笑顔ばかりだった。苦しい表情も、悲しい表情も、この男の中にいくつもの感情を見てきたけれど、それはどれもがきらきらとまぶしくひかっていた。さみしくはなかった、と思う。どんなにつらいことがあっても、オレを追うこの目があったから。

季節はめぐる。ゆっくりと別たれる道の先を思いながら、卒業証書の入った筒をぎゅっと握った。歩き出した高尾の後をなんとはなしに追う。今までと逆だ。いつの間にか隣に並んでいた背中を頼もしく感じたのはいつからだったか。もう覚えていない。上書きされる記憶の量が多すぎた。降り積もる記憶の隅で、いつも、呟いていた。好きだ。オマエが、高尾が、好きだ。胸と喉がぎゅうっと痛む。この感情をなんと呼ぶのか、もう分からなかった。

咲き乱れる桜の大樹のもとで立ち止まった。門出を祝うように桃色が降る。目を細めると、薄桃色になった視界の向こうで、高尾がわらう気配がした。ふっと息の音がする。下品に笑うでもなく、泣いてしまいそうな笑みでもなく。いとしいと、思う。手を伸ばしたくなるような笑みだった。それが叶わなかったのは、オレよりも先に高尾が手を伸ばしたからだ。何度も伸ばされた手が、何度目かも分からない、オレの頬に触れる。何を考えている。何を思っている。抱え込みがちなこの小さな頭の中身を、どうにか知ろうと目を凝らす。

「……ほんとに卒業しちゃうんだな、オレら」

真っ直ぐにオレを見る夕暮れが曇らないよう、ゆっくりと瞬きをする。触れてくる手のひらは、この二年で随分大きくなった。秀徳のバスケを支えた、ひとりの、PGの手のひら。左手をぎゅっと握る。それに高尾も気づいたようで、少しだけ、かなしそうな瞳になった。

「真ちゃん、バスケ、やめるの?」
「……オマエはどうなのだよ」
「オレ? ……どうしようね。まだ迷ってる」
「なら、オレもまだ決まっていない」
「なんじゃそりゃ」

真ちゃん変なこと言うね。それで緊張がとれたのか、今度はためらいなく両手でオレの頬を包んだ。あたたかい。春そのもののような温度だ。手を重ねるわけでもなく、拒否するでもなく、ただじっと橙色をみつめていた。桜の花びらが優雅に泳ぐ。

「真ちゃん」
「なんだ」
「バスケ、やめるの?」
「……知らないのだよ」
「じゃ、言い方変えるわ」

埋まらなかった20センチ弱を、背伸びと重力で少しずつ埋めあう。誰もいない校舎裏だった。いつもはおどろおどろしいほどの静けさを湛えていたこの場所が、今はどうしようもなく穏やかに澄んでいる。その場所の、ちょうど真ん中でキスをした。唇同士を触れ合わせるだけの、誓いのようなキス。閉じていた目を開ければ、同じ速度で開かれる色がある。すきだ。花びらにのって、この想いが届けばいい。

「オレと、ずっと、バスケしよう」

今度こそなきそうな顔をして、高尾は精一杯の声でそう告げた。ずっと、ずっと、オレからパス受け取って、オレだけのパスをその手に、その手いっぱいに、オレがパスを降らせるから。そんなことを、こいつはずっと、その頭の中に抱えてきたんだろうか。何も言わなかったくせに。何も言えなかったくせに。ただひとつわらえないことは、高尾の夕暮れの中に、同じようになきそうな、よわくて臆病でかたくなな、オレの心がうつっていて。

ずっと。いつまで。大人になって、社会に出て、もっと年をとって、死ぬまで。言えなかった想い。届いていた想い。別たれるはずだった道が、その距離を縮めてそっと並ぶ。ようやくあげられた手で高尾の手を握る。弱弱しくてもいい、伝わらなくてもいい、その熱に触れたかった。卒業式を祝う声が響く。オレとオマエは今日、同級生を、チームメイトを、友達を、きっと恋人という場所も、卒業する。

すきだよ真ちゃん。何度目かの告白は、最初のときと同じく、涙に濡れた声だった。かなしい涙でも、くるしい涙でもない、たったひとつの幸せを願う、あたたかい涙。オレも、オマエが、すきなのだよ。肩に顔を埋めてほろりとこぼす。約束はオレたちをあたたかく縛る。同じ場所で。お前の隣で。家族になろう。ふたりでいれば、それでいいから。


「ずっと、一緒にいよう」



それは、途方もない未来の、約束だった。



エンドレスルツ
(幸せになる第一歩)

愛樹さんへ!


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