薄暗くなった校舎の中をばたばたと走る。部活が早めに終わった今日、そんな日に限って委員会の用事で駆り出されたりするのだ。帰りがけにどうしてもと手を合わされ、困ったオレがどうしようと見上げた先、制服をきっちりと着こんだ淡い緑色が少し時間をおいて呟くように言った。行ってやれ。他者を気遣うその声には続きがあって、本を教室に忘れてきた。明日返さないといけない本なのだよ。思い出したのは赤茶色の表紙の本。昼休みに見たときはまだ栞が随分前の方に挟んであった。あれ以降は進んでいないはずだ。思いがけず言外に待っていると告げられて、それでオレは大人しく頷いた。ありがと真ちゃん。素直に嬉しくて返した言葉は、意味が分からないのだよ、と突っぱねられてしまったけれど。

この頃の真ちゃんは、そんな風に少しずつ、気持ちを返してくれるようになった。他のやつのことなんか知るかってツンツンしてた頃と違って、どうしても駄目という時でもなければクラスメイトの手助けをするようにもなった。さっきみたいに、見も知らない相手に気を遣うことも増えた。緑間の世界も広がるんだな、オレは漠然とした驚きを抱えたものだ。当たり前のことなのに、オレはどうしてか、真ちゃんはずっと狭い世界で生きていくものだと思っていたんだ。だってあんな風に近寄るなってオーラを出す緑間に、誰が好き好んで立ち入っていったりするだろう。皆真ちゃんのこと分かってねぇなあと思いながら、隣にいる優越感に浸っていたのはオレ自身だ。

毎日朝から夕、下手すれば夜まで行動を共にして、オレが望むように、真ちゃんが望むように、お互いに触れてきた。部活中のハイタッチや背中に添える手、授業の前に配るプリントごしに重なる指先、それから誰もいない夜の部室で少しだけ寄り添って手を握ってみたり。オレが真ちゃんと呼んで隣を叩くと、真ちゃんは渋々って顔をしてゆっくりその場所におさまった。互いのパーソナルスペースが緩やかに侵食して重なりあう。早鐘のようなオレの心臓と、少し駆け足になる真ちゃんの生きる音。真ちゃん。右手をぎゅっと握りながら笑う。何なのだよ。テーピングをする前の左手は未だに熱の余韻を残している。呼んでよ。オレの名前。我ながら拗ねたような声が出て肩をすくめた。女々しくていやになる。抜かったのだよと自分すら誤魔化して呟くオレの声にかぶせるように、オレの右手の甲を残った熱が叩いた。じんわりと伝わる熱。高尾。感情ののらない声が、確かめるように。高尾。それ名字じゃんなんて言えるはずもないオレは、彼が紡ぐことで存在を肯定されるような音をこの全身で感じていた。高尾。オマエは本当にばかなのだよ。歌うような落とすようなその声は、持ち主がどこか笑っているような色をしていた。だからオレも笑ってみせる。そうだね、オレもそう思う。寄りかかった肩は、少しだけ冷えてしまっていた。

窓から差すオレンジ色はもうすっかり隠れてしまいそうだ。学ランのホックを止めながら思う。冬だな。やっぱり。放置されたバットが一本。グラウンドに引かれた白いライン。この窓から、この光景を、真ちゃんと何度見たのだろう。これから何度見られるのだろう。冬は人を感傷的にさせるな。呟いてまた前を見た。一日ずつ過ぎていく。隣にいる時間は有限だ。朝起きる、おはようと言う、それだけのことがうれしかった。オレが真ちゃんを選んだときのように、真ちゃんが、たくさんの人の中からオレを選んでいる。それがうれしかった。あっという間だぜ。バスケットボールを持った宮地さんの声。ずっと学ラン着てるんだと思ってたよ、オレ。でも。その先はシュートの音に重なって消えた。でも。その先を、オレはたぶん、知っている。すぐだ。きっと。それを望もうと望むまいと。手のひらをぐっと握る。あといくつパスを出せるだろう。真ちゃんが望むような、真ちゃんのシュートの一部になるパス。とっておきを見せてやる。真ちゃんの声が、いつもオレの胸を打つ。熱く。燃えるような。緩やかになっていた足をまた速める。早く真ちゃんに会いたい。

がらりと響いた扉の音は、半分ほどを残して止まった。オレの手の動きと一緒に。窓もカーテンも閉め切って、後ろだけ電気がついている教室の中。蛍光灯がこうこうと照らす。窓に寄りかかるようにして、真ちゃんが眠っていた。手の中にはあの赤茶色の本がある。読んでいる間に寝てしまった、のだろうか。部活の後とはいえ今日は自主練もそう多くはしていない。元々寝不足だったのかな。今度もっと注意して見ておいてやらないと。近寄りながら呼んでみる。真ちゃん。少しだけ俯いた顔は思ったほど苦しそうではなくて、どこかほっとしたような気持ちになった。長いまつげは髪よりも濃い緑色だ。不思議なひかりを宿してふわりと上を向く。寝てるの。音にならず息に溶けるように。開かれない瞳になぜだか手が伸ばせなくて、その前に立ってささやかな緑色を見下ろした。物足りなくてしゃがみこむ。見上げる。見慣れたお前の顔。いつまでも見ていたい。そんなこと。真ちゃん。オレはね。声に出したら実現してしまいそうで少し怖かった。オレはね。喉が痛む。しんちゃん。目を閉じたら消えてしまうかもしれない。真っ暗な窓に真ちゃんの後ろ頭がうつる。開いた口を閉じて、開いて、閉じた。お前が。お前と。言葉にならない感情を諦めて、ぼんやりとそのまつげを目にうつした。焼きつけろ。忘れるな。忘れるな、絶対に。目を細める。オレの世界に灯る、たしかなひかり。

ほろり、透明な粒が緑間の頬を転がり落ちた。あ。咄嗟に手を伸ばしたオレの指先に阻まれて、その粒は床に落ちることなく立ち止まる。オレの指に佇んだそれは、指紋をなぞるようにして溶けていった。染み込んだのかもしれない。その証拠に、身を乗り出したせいですぐ真下にきていた真ちゃんの手の甲に、ぱたりと似たような粒が落ちた。あ。今度は止まらなかった。染み込むことなく転がっていた粒は、その向こう側に見えなくなる。ぱたり。もうひとつ。霞がかかった頭で見上げた、今度は彼のふたつぶめだった。きれいでいとしい、透明なこころ。

手のひらが挟む本を静かに抜き取った。その間にもぱたりと粒がこぼれる。慌てて本を避難させて、それでようやく落ち着いた。向かい合わせになって、やっぱり冷えてしまっている手をそっと包む。ぱたり。彼のこころがまた呟く。それがどうしてか、かすかな音となってオレの鼓膜を叩いた。高尾。誰の立てる音もないこのちいさな世界で、緑間の声がオレを肯定する。高尾。泣くな。何の夢を見ているのだろう。それは決して明るいばかりの夢ではないのかもしれないけれど、彼の頭のどこか片隅にオレがいるという事実は、このこころにひどく染み入った。

「……泣かないで、真ちゃん」

オレはここにいるよ。例え何がオレたちを否定しても、お前がそうしてオレを肯定してくれる限り。オレの名前を呼び続けてくれる限り。




運命をつなぐ針盤
(この糸が切れる、そのいつかまで。)




相互記念:ソウさんへ!


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