受験票をポケットの中で崩してしまって、ああ、とすぐさま後悔した。あの人こういうことしたら絶対怒るから。
仕方なくいそいそと取り出して両手でしわを伸ばそうと躍起になる。
74という彼の背番号と俺の背番号を組み合わせた数字が見えて、これが自宅に届いた日と同じ気持ちでやはり泣きだしそうになってしまった。
それも一瞬と待たずに無に帰る。
もう少し、彼の家につくまで我慢しよう。いや、彼の家についても、まだずっと我慢した方が、いいのかもしれない。
電車の端の方ですすり泣きが聞こえた気がして、俺はより一層心を引き締めた。



「お邪魔しまーす」

東京にある、笠松センパイの一人暮らし中のアパートに来たのはこれが五度目だった。
センパイが卒業した当初は無情にも横たわるこの距離を本当に耐えきれるものかと思ってしまったが、彼に情けなく駄々をこねるようなそぶりは見せたくなかったし、なにより二年目を迎える海常高校バスケ部の生活が忙しくて楽しくて、その次の年はもっといろいろあって、結局今日までの月日はあっという間に過ぎ去っていた。

「いやー、久しぶりっスねぇ」

「最後に会ったのいつだっけ?」

「この間のウィンターカップ?以来じゃないスか?」

「マジか、それじゃあそう久々でもねぇな」

電話とメールだけで過ごした日を指折り数えて、センパイは少し驚いたような顔をした。
なーんか一年くらい顔見てなかった気ぃするわ、と屈託なく笑って俺をリビングへと促す。
また少しだけ下になったように思う背中を追いながら、俺は少しの意地悪い意図をこめて言った。

「寂しかったっスか?」

「…調子乗ってんじゃねぇぞ」

いつまで経っても容赦のない足だ。
およそ恋人にする仕打ちではない強さで向かってきた蹴りを、避けきれずに太ももで受ける。
からかったらすぐこれだから、ほんと乱暴な人だと思う。

「いったー…センパイ、手加減って言葉知ってるっスか?」

「お望みならもうちょい強くできっけど?」

「いや結構ですすんませんっした」

童顔のくせに不敵な笑みなんか浮かべて言うので丁重に謝っておいた。
基本的に謝んのとかこっちから折れんのとか大っ嫌いな質なんだけど、この人相手にならまあいっかって思えるから不思議だ。

手で示されるままリビングのクッションに腰を下ろす。
俺がコートを脱いでいる間に向かいに座った笠松センパイは、ちらとうかがうような視線をよこしてきた。
気づかないふりをして、白い箱をテーブル上に乗っける。

「これ、前買ってきてセンパイがおいしいって言ってたシュークリームっス。期間限定でチーズクリームのやつ売ってたからそれと、普通にカスタードのとで四つ」

「あ、おお、ありがと」

「いま食べる?」

「いやそれより先に……あっ、と、先に、飲み物入れてくるわ。コーヒーでいいか?」

「あーすんません、ありがとうございます」

明らかになにか言いかけたのを途中でやめて、センパイはごまかすように立ち上がった。
不自然な挙動に言及することなく俺はへらんと笑うだけで彼を見送る。
短気なセンパイには珍しく、俺に心の準備をさせてくれるらしい。せっかくの好意だ、甘えさせてもらおう。
そっとポケットから取り出したしわくちゃの受験票を膝に置いて、もう一度その二桁の番号を眺める。
目を閉じなくても真っ白い掲示板と黒文字の羅列が鮮明に浮かんだ。
じんわり滲みはじめた気持ちを無理にせき止めて、平静をよそおう。

「…ほらよ」

「どうもっス」

手渡されたコーヒーは一口だけすすった。
神妙な顔つきの笠松センパイが聞く体勢に入るのを見届けてから口を開く、しかし、その段階になって俺はなんと切り出したらいいのか急にわからなくなった。

「…黄瀬、どうだったんだ」

見かねたセンパイが優しく、力強く尋ねてくれる。
ただ質問に答えるだけだと自分に何度も言い聞かせて、ようやく俺は震える声を絞り出した。

「…受かってました」

今日は大学の合格者発表の日だった。
笠松センパイと同じ大学を受けた俺は、なんでも直接のがいいに決まってんだろというセンパイの持論でウェブ発表も見ずに大学まで結果を見に行き、見事自分の受験番号を見つけてきたのだ。

「そ、か………って、は?受かってた?」

「ハイ」

できるだけ感情を抑えて返すと、センパイはぽかんとした顔で固まってしまった。
どうすればいいのかわからないので俺も無言のままでいれば、まん前の双眸に薄く涙が張った。
思わずぎょっとして身を乗り出す。

「え、ちょ、センパイどうしたんスか!?」

「っ、ばかやろう!どうしたじゃねぇだろ!受かったんならもっと嬉しそうにしてろよボケ!お前来てからずっと暗いしてっきり良くなかったのかと…」

はー、と熱く息を吐いて心臓を押さえた笠松センパイは、体の真ん中から掬い上げてきた気持ちを大事に浮かべるように「よかったー…」と言った。
それから改めて俺に向き直り、はにかむように笑っておめでとうと手放しの賞賛をくれる。
その様子にほっとして気の緩んだ俺も笑いそうになったが、ぐ、と引っかかった言葉が俺の動きを止めた。
やっぱり笑うに笑えず、なんとも中途半端で薄暗い表情をしてしまう。
それがあまりに変な顔だったのか嬉しそうだったセンパイの顔が訝しげに歪んだ。

「お前どうしたんだよ?なんかあった?」

「えーっと…」

あったというか、なんというか、…言われたと、いいますか。
だけどこんなの愚痴みたいだし言いたくねぇなあと苦笑する俺を許さずに、彼はさっきまでのほころんだ顔はどこへやら、目をきゅっとつりあげて詰問しにかかってくる。

「言え。とっとと言え。はっきり言え」

「あー…はは、その、実は発表見に行ったときに、名前とか知らないんスけど海常の同期の人がいて、」

しゃべったこともないしもちろんクラスも一緒になったことのない男子で、かろうじて制服で海常の生徒だとわかる程度の面識のない人物だったが、向こうはモデルもバスケ部エースもこなすちょっとした有名人である俺のことを当然のように知っていた。
そして目ざとく手もとを覗きこんで俺の受験番号と掲示板とを確認し、恨みがましい瞳を向けてきたのだ。
「いいよな」と、男は言った。聞き慣れた羨望だったけれど、俺の中ではもはや罵声に近い言葉になり下がっていた。
「黄瀬くんってあれなんだろ、一回見たことなんでもできちゃうんだろ。みーんなそう言ってたよ、すげぇ、すげぇって。だからスポーツなんかめちゃくちゃ得意だし、引退遅かったのに、勉強もうまくいくんだな。いいなあ、俺も、やったーって、叫びたかったよ」
間近で聞こえていたはずの合格者の歓声がすっかり遠くなっていた。
同じように、とまではいかずとも、小さく、堪えきれないように、やった、と頬を緩めて吐き出した俺の嬉しさも、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。
「俺だって頑張ったよ、死ぬほどな、それこそ冬の追い込みの時は寝る間も惜しんで勉強したし何回も吐いたりした。なのにさ、報われないってどうなんだ?お前みたいにサイノウのある頭のイイ奴らってさ、俺らみたいな努力しかなくてその努力を必死に続けてきた奴の気持ち、考えたことあんのかよ。そういうこと考えてもまだ、俺らの前で、受かった、嬉しいって、言えんのか?自分が受かってたら周りの落ちた奴の気持ちや努力、どうでもいいのか?」
お前にそんなこと言われる筋合いないって怒鳴ってもよかったと思うのにそうしなかったのは、才能と努力の軋轢を誰よりもよく思い悩んでいたからだ。
海常に入っていろんなことを学ぶまでは、才能のない出来損ないなんて見苦しいんだから黙ってればいいのにと思いながら過ごしていたけど、俺にたくさん劣るような人でも俺よりもすごいところがめいっぱいあるってこと、見えるようになった。感じられるようになった。そして少しずつ、自分から見つけられるようになった。
俺が片手でもできるようなことを何日も何週間も何ヶ月も頑張ってやっと成功させて、うわあって喜ぶその顔を、いいもんだなあって思えるようになった。
努力は、明確な評価対象だった。

「…で、まあ、やっぱこういうときってそれなりに自粛した方がいいのかな、って。たしかに俺が落ちててほかの人が両手上げて喜んでたら、ちょっとぐさってくるかもしれないし。その人も頑張ってきたんだろうから、」

「そいつ、どこのどいつだ」

「…へ?いや、だから名前も知らな、」

「つーかお前も言い返せよ黄瀬ぇ!なんだよそのナメた野郎は!あーくそ、ぶん殴らなきゃ気が済まねぇ…!」

ばん、とテーブルを両手で叩いた笠松センパイの目は怒りに燃えていた。
びっくりして瞬きを繰り返す俺にずいと顔を近づけたセンパイが、「いいか!」と喝を入れるときのような声で怒鳴りつける。

「努力して成功した奴は好きなだけ喜んでいいんだよ。なんで頑張って結果まで出たのにまだそれ以上我慢する必要があんだよ。あのな、失敗した奴が、駄目だったわけじゃねぇ。努力した分悔しくてやるせないのもわかる。でもそれとお前が頑張って成功したこととは、なんの関係もねぇだろ。お前が全力尽くして、やりきって、やっと手に入れた結果に、誰も横槍いれる権利なんかねぇ。やった、よっしゃ、ってお前のその気持ちは、お前だけのもんだ。みんなに祝福されてこそ然るべきで、間違っても邪魔されていい代物じゃねぇよ。
お前も頑張っただろ。勉強なんかろくにしてこなかったくせに、俺の使ってた教材ぼろぼろんなるまでやって、頑張っただろ。俺は、そんなお前を思う存分褒めたいよ。
よくやったな、黄瀬。おめでとう、よく、頑張ったな」

頑張ったな、って言われて、頑張った日々が鮮やかにフラッシュバックした。
俺も、頑張ったから、泣いて喜んでいいのか。嬉しいって言ってもいいのか。
俺はきちんと、俺を褒めてあげてもいいのか。
戸惑って躊躇ってずっとずっと手探りで、自分が一番かわいいと豪語しながら本当はろくすっぽ労ったり祝ったり認めてあげたりしていなかった自分自身のことを、俺も、よくやったな、って。

「俺、受かったの喜んでいいんスか」

「ばか、当たり前だ」

「っ…センパイ、俺、受かって、すっごい、嬉しい。よっしゃ、って思った。やったー、って恥ずかしいけど叫んでみたくて、どきどきした。早くセンパイに教えて、一緒にやったー、って言いたかった」

「うん、俺も今めちゃめちゃ、やったーって、思ってるよ」

一緒にやったーって思ってるよ。
センパイがそうやって笑うから、俺も弛んだ笑みで「へへ、」と空気の漏れるような歓声をこぼした。
向かいから真横に移動してきたセンパイが俺の頭を撫でて、とても満ち足りた気分になる。
耐えきれずがばり抱きしめた腕の中でも、今日は文句を言うこともなく、おめでとうおめでとうと俺に一生分の賛辞の言葉をくれる笠松センパイは、いつだって俺の心を充たす名人だった。



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