しーんちゃーん。
べたり、だだっ広い背中に貼りつくと、なんなのだよ、となんとも思ってなさそうな返事が返ってくる。
昔なら絶対にキレ気味で俺を引き剥がしていた手も今は向かってこなくて、それが若干寂しいような嬉しいような…うそ、やっぱ、すげぇ嬉しい。
「なーにやってんの」
「レポートだ、締切が二週間後に迫っているからな」
二週間てまた、まだまだ先の話じゃねぇの。
相変わらず慎重な対応を心がける恋人は、今朝の時点ですでにレポートの四分の三を終わらせていると言っていた。
残りがあと四分の一なら二週間前にカタカタ躍起になるもんでもないと思うのに、真ちゃんの優先順位は頑なだ。
お腹にまわした俺の両手をのけもしないで真ちゃんはひたすらにパソコンとにらめっこしていた。
こちらから腕や目の前なんかを邪魔して作業妨害しないかぎりは、ぺたぺた触ったって基本は無視される。
もともとおしゃべりでないのにいよいよ一言も発してくれなくなるから、俺が言葉を生み出さなければ空間は沈黙が続くばかりだった。
真ちゃんと俺だけの、やわらかな静けさ。
くっついた背中からあまくはないけどいいにおいがする。安心する。
そういえば、高校のときは隙間を埋めるようにもっと言葉を話していたっけなと思い出した。
空気はわりと読み解ける方だったけど、まさか俺も他人の考えまでお見通しってわけじゃなかった。
だから真ちゃんに近づくにおいて、真ちゃんと付き合っていくにおいて、真ちゃんを深く知るにおいて、真ちゃんについてのたくさんのことを話して話し返してもらうしかなかったのだ。
そんなある種詮索に近いほどの会話文たちも今ではめっきり減ってしまった。
代わりに俺らが交わすのは、過去よりも先、今の目の前に広がる、未来の話である。
真ちゃんの好きな食べ物も嫌いな色も大好きな本も大嫌いな天気ももう聞かない。
今日なに食べたい、今度の休みはなにがしたい、明日のラッキーアイテムの準備はばっちりなの。
真ちゃんと俺二人の今日、明日、しあさって、その次、その次、を形作るきらめいた言葉の方を、並べていきたいから。
「…あり?終わったの?」
「ん、下書きの段階だがな。明日からは推敲と仕上げだ」
キーボードを打つ音が止まったから肩ごしに画面を覗きこむと、そこはすでに終了準備に入っていた。
じゃあ今度は俺に相手させてよと暇潰し役を買って出れば、こちらに向き直った真ちゃんが「せいぜい退屈させてくれるなよ」と不遜な笑みで応戦する。
言うねぇ。目を細めてふるふる笑う俺は、いつでもこの男の気を惹くのに夢中だ。
「そーんなワガママオヒメサマな真ちゃんのために、実はとっておきのネタがあんだよねえ」
「とっておき?」
「んん、高尾和成、てんちょーに臨時収入いただいちゃいましたー」
近くに転がしてあった鞄をずるり引き寄せて封筒を出せば、真ちゃんが小さく手をぱちぱちとやった。おー、なんてちっちゃな歓声もついてる。
へへん、自慢するように口の端をつりあげて封筒を床に置いた俺は、もう一度鞄に手を突っ込んでA4判の冊子を中から取り出した。
一応部屋漁ったけど見つかんなかったから引っ越してきたときにやっぱ捨てたんだろうなーと思って、わざわざ買ってきたものだ。
真新しい、まっさらな地図帳。
老夫婦が二人で営んでいる喫茶店の、数人程度しかいないお抱えバイトの一人である俺は、イベント事がある日だってたくさんバイトに入るからかなかなかに重宝されていた。
だからこうして時たま、ボーナスをいただけることがある。嬉しいことに。
「これで目標金額までもうちょい、さあ、そろそろ行きたいとこ決めとこーぜ」
一番後ろに折りたたまれる形でついていた世界地図を丁寧に広げて、真ちゃんと俺は身を乗り出した。俺の片手にはちゃっかり緑のペンが握られている。
これは真ちゃんが言い出したことで、でも本格的に実行に移したのは俺だった。まあその流れはいつものことだ。
いろんなところに行ってみたいと、夢見るような顔でぽつりと言い放ってくれたのだ、この男。
それも「お前と」なんて続けられちゃあ、一も二もなく「よし行こう」と立ち上がるのは当然の話で。
それからはずっと、俺らは生活費を抜いたあとのバイト代を惜しげもなく銀行に差し出してきた。
まずはいくらいくらまで貯めよう。そしたら、一旦好きなところに行ってみよう。
二人で秘密基地作るみたいにひそやかな笑い声を立てて約束しあった金額まではもう、あと一歩に迫っていた。
「真ちゃんどこ行きたい?」
「とりあえずドイツ、だな」
「うんうん、てーか、ヨーロッパは全制覇っしょ?」
「ふ、よくわかっているじゃないか」
くるり、くるり、緑色の印が次々と国名を囲っては増えていく。
サグラダファミリアは、どんなものだろうな。
スペインと記された国土を繊細な指先で撫でて、真ちゃんは思いを馳せた。
芸術品のような男の隣で芸術品を眺められるとは至高の贅沢だ。
目を閉じて俺との旅を楽しむ真ちゃんを見つめて、胸が躍る。
「…いろんなとこ、ぜーんぶ、一緒に行こうな」
空想だけでここまで甘美なのに、いざ本当に出発したら、どれだけ素敵な空が拓くのだろうか。
計り知れないときめきを見据えて世界をなぞる手に自分のものを重ねれば、真ちゃんはどきどきするような声で言った。
「楽しみ、なのだよ」
そうかい、俺は、お前がそう言ってくれるなら幸せ、なのだよ。
地図帳を買って行きたいところに印をつけよう。きみが見たいもの二人で全部見に行こう。