バスケが、好きだ。


倒れこむようにして座った控室の壁は、汗だくの体をもってしてもしんしんと冷えゆくような温度だった。熱くなった頭を押し付けて息をする。心臓が痛くて、誤魔化せればと期待して咳き込んでみた。意味なんてない。涙が出そうだ、と思った。唇を噛む。

終わったばかりの試合を振り返る。途中の敵のシュート、止められたはずだったそのオレンジはオレの頭を悠々と超えてゴールを通過していった。跳べると思った。止められるはずだった。オレの意に反して床から剥がれようともしなかった足を、たまらなくなって殴りつけた。オレの足。なんでなんで、なんで。

勝った試合の、たったひとつのボールがオレの心を突き刺すようだった。高校の時、憧れの人を前にして無茶をした、その一回の試合をこの体は今も引きずっている。一度故障しかけた膝をどうにか持たせてくれたのは、あの頃のチームメイトと、友人たちと、ただ傍にいることを望んでくれたあの光。全てを踏みにじるような心持ちだった。もっとバスケがしたいと思ったのはオレだ。もう一つの道もあったけれど、それでもオレはバスケがしたかった。尊敬した人、憧れた人、そのみんながバスケへの道を歩む中、オレだけバスケを諦めるなんてしたくなかった。たとえオレに、ただの人を超える才能が無いとしたって。

二十を超えて、数年が経っていた。キセキと呼ばれていた頃とはもう違う、コピー能力だけでは立ち向かっていけない選手がたくさんいた。それが楽しかった。面白かった。高校だけじゃない、違う年齢の人たちと面白いバスケをするのが好きだった。時折知った顔と試合をして、勝ったり負けたりして、嬉しかったり悔しかったりした。輝いてる時間。紛れもなく、あの頃からずっと続く時間だった。手放したくなかった。一瞬でも立ち止まれば、オレはきっと取り残されてしまう。それが怖かった。

控室には誰もいない。区切りの試合を勝って、祝勝会状態のロビーにまだみんないるのだろう。今の主将が気を遣ってくれているのかもしれない。あの人もあたたかいな、と思う。オレは周囲の人にとても恵まれている。

たまらなくなって、無意識にポケットにつっこんでいた携帯電話を掴んだ。時計表示は九時を少し過ぎたところ。それならあっちは多分、朝の七時を過ぎたところだ。受信履歴にも送信履歴にも一番多く並ぶ番号に、ためらいなくコールした。「――…黄瀬?」3度目のコールが鳴るか鳴らないかのうちに聞こえた声に、オレの涙腺が決壊する。

「た、たいが、ぅ、たいがぁっ…!」

握りしめて名前を呼ぶ。疲労を訴える体に、息が苦しくなる。部屋の隅で丸くなって壁に寄りかかって、このまま消えてしまいたいと思う。そんなこと出来やしないのに。

『涼太。聞いてるから。大丈夫』
「う、うぅ、っ、ん」
『試合、終わったんだな。お疲れ』
「ん、おわった、さっき」

うん、そっか、頑張ったな。火神の声が柔らかく頷く。火神はいつも、試合が終わると頑張ったなと言ってオレの頭を撫でた。オレはそれを聞くのが好きだった。最初は別に当然だろって思って聞き流してたのに、今ではその声が、オレを唯一支える声だ。いつの間にこんなに弱くなったんだろう。

「こわいよたいが、こわい、おれ、」
『うん』
「オレ、バスケ、出来なくなんの、いやだ…!」
『うん』

せっかく楽しいと思えるのに。世界はこんなにも広がったのに。憧れとも、尊敬とも、アンタとも、繋がれる唯一の方法だったのに。一人ぼっちになってしまうのが怖かった。こんなにも好きなバスケと、つながりが無くなってしまうのが怖かった。ずっと前からオレの膝は、もうだめなんじゃないかと囁いてくる。もう跳べないんじゃないかって。もう無理なんじゃないかって。バスケのない世界は、あんなにも暗くて、つまらなくて、一人ぼっちだって、オレの膝も知っているはずなのに。

『痛むか、膝』
「分かんない、でもさっき、一回、跳べなくて、」
『うん』
「たいが、オレ、あと何回とべると思う? あとどれくらい、バスケ、していられると思う?」
『……そうだな、』
「跳べなくなって、走れなくなって、投げられなくなって――…オレ、バスケ、やめたくない…!」
『涼太』

涙でぐしゃぐしゃになった頭を抱えて、ただ確実に歩み寄ってくる現実から目をそらした。永遠に続くものなんてない。だけど、バスケのことだけは、オレは永遠なんだと思っていたかった。思っていたかったんだよ。

ぐすぐすと泣くばかりのオレを火神が呼ぶ。がんがんと響く轟音の中で、火神の声がぼんやりと聞こえる。アンタにすがってみっともなく泣いて、そんなオレを、どうしてアンタは見捨てないんだろう。

『やめたくねぇなら、続ければいいじゃねぇか』
「っ、ぅ、…?」
『なんで、やめたくないのに、やめなきゃいけないみたいなこと、言うんだよ』

噛み砕いて言い聞かせるような、降り積もる雪のような声だった。げほ、咳き込んで、息を吸う。吐く。

『オレは多分、お前を止めなきゃいけねぇ立場なんだと思う。お前に、ずっとバスケとつながりたいなら、とっととコーチにでも転向しろって、言うべきなんだと思う。でもお前は違うだろ。コーチとかじゃなくて、お前がプレイヤーとして、バスケとつながってたいんだろ』

バッシュの音が好きだった。ボールの手触りが好きだった。どこまでも広く見えるコートの中で、相手の選手と対峙する瞬間が好きだった。オレが好きだと思うバスケは、コートの内側で、この体で感じるバスケだ。それを、火神は、よく分かっていた。

『オレはお前のバスケが好きだし、バスケしてないお前だって好きだ。だから、そんなに不安がるなよ。バスケが好きだって、楽しそうにプレイしてるお前が好きだよ。だから、その好きな気持ち、ずっと持っとけよ』

大丈夫、そう言う火神の声は、いつも寝る前に聞くおやすみ、の声にどこか似ていた。オレの耳のずっと奥にふわりと落ちて積もる声。

ロッカールームはしんと冷えていた。かちこちと時計の針が鳴る。電話の向こうで火神が朝食を作る音が聞こえていて、オレはそれを聞きながらゆっくりと呼吸をした。バスケを失うのが怖かった。今でも怖い。それから、バスケが好きだ。本当に。だから、今はそれだけを考えていたかった。それでいいと、火神が言うのなら。

「…オレ、ロビー、戻るっス」
『おう。オレも朝飯食うわ』
「うん、」

試合頑張ってね。鼻をすすりながら、くぐもった声でそう告げる。おう、と笑う火神の声が、遠くても近くて、やっぱりあったかかった。嬉しくてくすぐったくて、オレもわらう。戻らなきゃ、というよりも、戻ろう、と思った。今のオレがバスケをする、あの場所へ。


火神の声は、オレに奇跡を起こす。「キセキ」のオレを呼び覚ます。オレにとっては、あの頃もオレ自身も、輝いてまぶしい、憧れのひとりだった。それから今も、ずっとずっと。



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