「…ねえ」
「ん?」
「大学出たら、オレ、ここ来てもいい?」
「いいぜ」
ひょいっと投げられたのは、今自分たちがいる家の鍵。真新しいそれはいつ作られたものだろう。両手でぎゅっと握って瞬きをしたら、雑誌をめくりながらこちらを見ない赤色がぽつりと言った。
「それ使えよ」
「…うん。分かった」
思えばたったそれだけの、オレたちの始まり。
つい最近変えたばかりのカーテンが風に揺れる。いい加減毛布でも出そうかと考えてしまうほどの涼しさだった。良い天気なのにさむいって変。布の隙間から透き通るような晴天を見上げ、オレはくあ、とあくびをした。
「黄瀬。起きたか」
「ん、…おあよー……」
「はよ。さっさと起きろよ、飯冷める」
「んー」
かちゃりと開いたドアから、同居人が白ワイシャツに腕を通しながら入ってきた。オレを見てため息をひとつ。文句ありげにしながらも、オレのこめかみにちゃっかりキスをしていく矛盾がくすぐったい。眩しくて開けられない瞼をなんとか持ち上げて、離れていく袖を引っ張った。火神のキスは、昔からオレを甘やかすのがうまい。
「…もう行くの」
「まあな」
「やだー会社なんか行かないでオレといてー」
「芸能人なんかやめて家で家事しててー」
「え、それはもっとヤダ」
「真顔で理不尽なこと言ってんじゃねぇよ」
だらだらくっつきながらふざけてたら額をぺちんと叩かれた。オレは本音だったんだけどなと思うけど、きっと火神も本音だったんだろう。お互いに分かっていても言わない。もう10年近くなる時間を、オレたちはこうして重ねてきた。馬鹿みたいだな、と思う。それでも離れられないのは、オレも火神も同じことだ。
オレから離れてネクタイを巻き始めたのを見て、ほんとにそろそろ出勤時間なんだなと眉間にしわを寄せてみた。ちょっとだけぶーたれる。せっかく今日は午前中だけおやすみをもらったのに、火神が仕事じゃつまらない。曜日関係なく全国を飛び回るオレは、それでも火神がオレに合わせればいいと思っている。昔も今も変わらない。自分でもめちゃくちゃわがままだと思うオレを同じ家に置いている火神は、多分、やっぱり、ばかなんだと思うけど。
「そういえばさぁ、火神っちって」
ネクタイを結ぶ手をとめずに、ん、とだけ返事をする。未だにまとめるのが苦手らしい、火神の眉間にもしわが寄っていた。わあおそろい。ちょっとだけ楽しくなって笑ってみる。
「オレのこと、なんで置いてくれる気になったんスか」
気分屋な行動にも唐突な質問にも慣れている火神は、あー?だかなんだか言いながらネクタイと格闘している。横顔からも苛立っているのが分かって、枕元に携帯置いとけばよかったなあと寝返りをうちながら思う。テンパる火神は未だにかわいい。こんなでかい男相手にオレも末期だな、ベッドから転がり落ちる寸前までいって床にだらりと腕を垂らした。
「なんでって……なんで」
「質問に質問で返すのは無礼っスよ」
「そりゃお前はワガママだしめんどくせぇしうぜぇし暴力的だし口も悪けりゃ頭も悪いし家事できねぇし」
「それ以上言ったら家出する」
「良いとこっていや顔だけかもしんねぇけど、」
ぐっさぐさのハートを抑えてストップをかけたというのに、火神の口は朝から滑らかに音を紡いでいる。よし、立てるようになったら家出しよう。オレが爽やかに今日の予定を決めたところで、火神はオレを小馬鹿にするような笑みで振り向いた。
「でもまあ、これから先もオレの一番近くにはお前がいるんだろうなって。そう思った」
だから別に、理由なんか考えてなかったよ。いびつな形のネクタイにピンをさして、ようやく鏡の前からこっちに来る。ああそう、用意周到に合鍵なんか準備してたのもそういうこと。どさりと乱暴に座った反動でベッドと一緒に揺れる、近くにある体温が。
「……顔見せろ」
「…ヤダ」
「今更照れんなよ。オレまで照れるだろ」
「しらねーよばかがみ! でりかしーなし!」
「はは、お前うさぎみてぇ」
布団を思い切りかぶって丸くなったオレを、火神が楽しそうにぽんぽんと撫でる。触んなばーかセクハラバ火神。早鐘のように打つ心臓を抱えて、オレは今何年分の寿命でこいつの言葉を受け止めてるんだろう。最悪だ。さいあく。ぎゅうっと布団を握ったその上から、火神のあったかい手が触れる。重なる体温はもう数えきれないくらい触れてきた。「で、お前はなんで、オレのとこ来ようなんて思ったんだ」当然のように聞き返してくるその声が憎らしくて悔しくて恥ずかしくて。
オレもあのとき、オレはずっとこいつと生きてくんだなって思ったことなんて、きっと一生言えやしない。