開け放してある窓から外を見ていた。緩やかに流れる風は頬に心地よく、空に浮かぶしろをこんなにもゆっくりと見つめたのは初めてだ。何の変哲もないしろが右から左に流れていく。ふわふわと。

灰色の人はあの後少ししてから出かけてしまっていて、今は男の人と自分のふたりだけが部屋にいた。男の人は本を読んでいて、自分はこうして窓の外を見ている。静かな時間だった。思い出したようにこぼれそうになるなみだをふいて、窓のすぐ向こうにある丘を眺めた。ふいに気付く。…そこにもぽつりとある、しろ。

「……?」

あれはなんだろうと無言のまま振り返る。男の人は少しだけ見ていた自分の目に気付いて、「どうした」と立ち上がって近づいて来てくれた。その柔らかさがすこしくすぐったい。あれ、と丘の方を指すと、男の人は目を細めてから首を傾げた。

「どれだ?」
「あの……山のところの、しろいやつです」
「山……山が有るのは分かるんだが」
「木のあいだにいます。ちいさくて耳があって…いぬよりはおおきいです。しろくて」
「……もう少し分かるか? どんな様子だ?」
「よつあしです。葉っぱの中にすわってます。まわりをみて…けがをしているみたいです。ときどきなきます」
「…なんて」
「……きゃぷ、てん?」

しろの口が動いたのを見てそれを言えば、男の人は驚くようなはやさで部屋の台にのっていたきかいを手にとった。少しだけいじってすぐに黙る。「――…いたぞ、裏の向こうの山だ!」怒鳴るようにそう言った直後、見ていた丘にあの灰色の人が走りこんできた。あ、と呟いたのを男の人も追うように、灰色の人がいる方向を見ている。丘の上をきょろきょろと見ながら走ってきた灰色の人は、ちいさなしろがないている方へまっすぐと駆けていく。

「…どうなった」
「まだすこし離れてて――今見つけました。会えたみたいです」
「そうか……」

良かった、息をはくようにしてしぼり出した声はかすれていた。あのしろはなんだったんだろう、もう一度見た丘にもうしろい影は無かった。










とびらから帰ってきた灰色の人はちいさなしろを抱えていて、つかれきった顔をしていすにどさりと座った。男の人が苦笑しながらその前にカップを置く。

「良かったな。危うく日が沈むところだ」
「ほんとにな……こんな距離走るもんじゃねェ」

なァ、言いながらしろを撫でる。遠くからではただのしろにしか見えなかったそれは、自分が見たこともない生き物だった。犬とも猫とも違う。

しろい生き物をじっと見ていたら、灰色の人が気づいたようにニッと笑ってくれた。思わず少しだけ笑い返す。しろいのは灰色の人の腕のなかですうすう眠っていて、そのときに感じたあたたかさがどういう名前なのか、今の自分には良く分からなかった。

「そういやァ、まだ名前も言ってなかったな」
「なまえ?」
「名前。おれはトラファルガー・ローっていう」
「おれはペンギンだ。よろしくな」
「……?」

しろいのを撫でながら自分を見た灰色の人と、今更だったなと笑う男の人。なまえ、の意味がよく分からなくて首を傾げれば、灰色の人は少しだけ困ったような表情になった。また何かしてしまっただろうか。謝ろうと思って口を開いたら、灰色の人がすっと指を持ち上げた。窓の外をさす。

「例えば、あれは山だな」
「…はい」
「空。建物。道。人。それぞれにそうやって呼び名がある。でも、『人』だけじゃ、お前なのかおれなのか、それともこいつなのか分かんねェだろ」
「………はい」
「だから、おれにもお前にもこいつにも、ちゃんとした名前が有るんだ。お前だけだって分かる、お前を呼ぶ唯一の音」

唯一の音。旋律は時に荒く、それでも優しく降り注いだ。音はくるしみをもたらさない。少なくとも、自分にとってはそうだった。その音が、自分にもある。唯一の音。

「おれがロー。こいつがペンギン。それから、このしろくまはベポっていう」
「…なまえ…」
「お前、名前は」

そんなきれいな音を自分は持たなかった。誰かに呼ばれたことも、呼んでほしいと望んだこともなかった。だから素直に首をふった。それがかなしいのかどうかは、やはり今の自分には分からなくて。

「……なら、おれがやる」

名前があることはそんなにたいせつなんだろうか。思い返してみた『名前のない自分』はどこまでも地に沈みゆくようで、さむくもないのに体がふるえた。…そういえば、もうさむくない。いろんなことがいっぺんにたくさん頭のなかに降ってきて、どうしようもなく降り積もるままに佇んでいる。そんな感触だった。
灰色の人は少しだけ考えるように目を閉じて、それからもう少しして目を開いた。

「――…サラワ」
「…さらわ」
「そう。今日から、お前の名前になる」
「さらわ…」

口の中でくりかえす。さらわ――サラワ。旋律は流れていくようで、たゆたうような音に目を細めた。サラワ。初めて自分のものになった、たったそれだけの音。

「お前、名前は?」

灰色の人も男の人もわらっている。あたたかいへやがにじんでいく。つまる息をひっしにすいこんで、それから――それから。


「わたし、は――サラワ、です」










幾度も重なる名前と温もり。

予想などし得なかった幸福に埋もれ、ただこの情景を忘れないために目を開く。





――…それが僕の、生の始まりだった。





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