ローは涙を見せない。それがいつからだったのか、おれにはとても定かではなかった。なぜならおれの記憶の中に、ローが泣いている情景がないからだ。産まれた直後のことなどおれが知るわけもない。ただ漠然とした偶然で出会ってから、ローはずっと、あの笑顔のままだった。

「どうしてお前は泣かないんだ?」

唐突に、そう尋ねてみた。振り返ったローは当然のことながら眉をひそめた気配をしていて、おれは目の前の海図を眺めながら、海はこんなにも水で満たされているのに、と思った。

「どういう意味だ、そりゃ」
「いや…漠然と思っただけなんだが。お前が泣いているところを見たことがないな、と」
「へェ」

いつものような酒ではなくおれが淹れた珈琲を片手に、ローはどこか楽しそうに肩を揺らした。闇色の水面に月がうつる。停泊した港は奥まった入江で、円を描くように囲われた地形が印象的だった。守られているような壁に、けれど月光は平等に降り注ぐ。こんな景色もあるんだな。おれもまた、自分で淹れたばかりの珈琲を口に含んだ。

「そういうお前も、泣いたりしねェよな」
「…そうか?」
「自覚がねェのは何事もマイナスに働くって言うぜ?」
「マイナスに働いたことがないから構わないな」
「屁理屈野郎」
「悪知恵男」
「お前は素直だってか?」
「そう見えないか?」

こんなに素直なのに、カップを掲げて見せれば、ローが心底楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑った。ご機嫌なようで何よりだ。おれとローだけの二人きりの時間、こうして歯に衣着せぬやり取りをするのが、おれたちのある意味では息抜きの一環だった。船長としてのローが背負うもの、航海士兼副船長としてのおれが背負うもの、それらを全部少しの間だけ降ろせる時間。

思うさま笑って気がすんだのか、ローはまた静かにカップに口をつけた。ふわふわとした帽子の毛が風に揺れる。甲板には暑くも寒くもない風が吹いていた。居心地がいい。

「…おれはな、ペンギン」

不意にローがおれの名を呼んだ。あまりにも呼ばれ慣れたそれは耳に馴染んで透明な音をしていたが、それでもおれの意識をいつでも惹きつけてやまない声だ。その瞳を静かに見返す。そこに何の感情が浮かぶのか、今のおれには見ることができなかった。

「涙や愚痴なんかっつうのは、感情の発露に使うものだと思ってる。発散だと言い換えてもいい。要は、自分の内にとどめておけない力を、外に向かって吐き出しちまえってことだな」
「ああ。キャスみたいな」

常にくるくると表情や感情を変えるクルーの名を言えば、ローはキャスみたいにな、と愉快そうに呟いた。

「他のやつらはそれでいい。泣いて、笑って、どこまでも素直に生きなきゃいけない。自分のために、ひいてはおれのためにな。だが、おれだけはその権利はない。…なぜだか分かるか」
「…さあ」
「おれは、お前らクルーの命を預かる人間だからだ」

カップを置いて息をはく。ローの話はいつでも単純明快だ。ただその単純さが、不可解な構造をしているローの思考をうまく説明しきることができない。ローの思考は言語化が難しい。それこそが、この世界の複雑さを表しているような気がして。

「お前らの誰が傷ついても、おれは悔しい。それはおれの落ち度だからだ。怒りも湧く、後悔もする。お前らはそれでいい。過去のことに縛られたままじゃ、今を生きるなんて言ってられねェだろ」
「…なら、お前は」
「おれは絶対に忘れない。悔しさでも怒りでも悲しみでも、おれがお前らのことで忘れて良い感情なんてありえない。お前らのためじゃねェ。おれのためだ。お前らが傷ついた時に生じた感情が、いつかお前らの命を救うかもしれねェんだから」

膝に置いた手のひらを握る。刀の鞘をつかむ癖。それはもしかしたら、ローなりの虚勢なのかもしれなかった。何よりも大切だと断言する、必ず守り抜くと豪語する。前を向くのはローの役割で、悪い予想をしておくのがおれの役目だった。だからこそ思う。ローだってきっと、失うことは怖いのだ。おれたちクルーが、船長を失うことに恐怖を抱くみたいに。

「…だから、おれの分までお前が泣け」
「…それはちょっと引き受けかねるな」
「なんでだよ」
「泣いたら前が見えないだろう?」

おれは航海士だと胸を張って言えば、ローは少しだけ目をみはって、それから「それもそうだな」と困ったように笑った。
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