隣の家のおじさんが、港に海賊がついたらしいぞなんて言い出した。またおじさんは酔っぱらってと思ったけど、村の向こうの方から徐々に近づいてくるざわめきが、おじさんの言葉を肯定しているようで驚いた。この島に海賊が来るのは珍しいことだ。なぜならここは、海軍の偉い人が直接おさめる、守られた土地だったから。



「いらっしゃいま――…せ」
「部屋空いてるか」

海賊かあ、とおれには関係のないことを考えながら店の準備をしていたら、表の扉がかたん、と開く音が聞こえた。反射的に客を迎え入れながら目をやれば、そこに立っていたのは見知らぬ服に見知らぬ姿。帽子のせいで顔の見えないその男は、決しておれの知る村の人間や客の類ではなかった。

「…ええと。何名様、ですか?」
「四人。全員男だから、広めの部屋があればひとつでいい」
「はい、その…ご案内します」

頼む、言っておれの後をついてきたその男は、雰囲気に似合わない真っ白な作業着を着ていた。つなぎ、とかいうやつ。帽子は紺色でつばが黄色、これまた似合わない可愛げなふわふわがついている。案内のために近寄った、その距離でも表情を窺い知ることはできなかった。前見えてるのかな、この人。おれがつい思ってしまうくらいには。

食堂の横の階段を上がる。途中の壁掛けから鍵を取り上げて、そのまま二階の廊下に出た。今更ながら気づく、この人――海賊、だよな。おれ、背中とか向けてて大丈夫だろうか。いきなり襲われたりいきなり刺されたり、そういうことがあったらどうしよう。ものすごく怖い。でもお客なんだから案内しないと。…無意識のうちにぎゅっと握りしめていた鍵のその上から、もっと大きくてかちっとした手が触れた。…あ。呟く。

「…そう怯えるな。何もしない」
「え、あ…あっ、ご、ごめんなさい、」
「一番奥の部屋か?」
「あの――…そうです」
「ここまででいい。ありがとう」

そうじゃないんです、と言いかけたおれの言葉を遮って、その人はきゅっと背を向けた。背中に見えたのは大きく描かれた海賊旗のマーク。あれはなんていうんだろう。おれを嘲笑するかのようにニイッと笑った骸骨に、クギがたくさん刺さってる。何を象徴するものなんだろう。

最奥の部屋の扉を開けて入っていくその背中に、おれはその場に立ち尽くしたまま、もう声をかけることはできなかった。




なんとなくしょんぼりとした気持ちで食堂に戻る。やりかけだった皿洗いを済ませて、カウンターの中にある椅子にぼんやりと座り込んだ。あの海賊は降りてこない。部屋で何かしているのか、もしくは窓から出て行ったのか。おれが海賊に出会うことが滅多にないから、ちゃんとした海賊のイメージができなかった。ただ思い起こせるのは、時折やってくる海軍の人たちから聞く海賊の話。傍若無人で血も涙もない、この世から消えて無くなるべき存在。

そんな人っているのかな、体験したことのない事実はやはり現実味が薄かった。立ち上がってキッチンを見渡す。片付けはちゃんとしておきなさいと言ったのは母親で、お客をいつでも迎えられるようにしておかなくちゃいけないと言ったのは父親だった。その両方を今でも守ることで、おれは孤独ではなくいられる。村にひとつのこの宿は、常に最低でもひとりは滞在している場所だった。

かちゃん、また扉の蝶番が来客を告げる。「いらっしゃいま」最後のせ、を言う前に、おれはまた少しだけ瞠目した。

「こんちわー」
「あ、は、はい。い、いらっしゃいませ」
「どーも。さっき来たやつ、どの部屋案内してくれた?」
「先程の方なら、階段あがって一番奥です。今ご案内します」
「平気平気。サンキュ」

入ってきたのは、さっきの海賊と同じ服装をした少し小柄な男だった。緑色の帽子に桜色のつば。その表情はやはり同じく、こんどはサングラスのせいで窺い知ることはできなかった。けれど、飄々と手をあげたその男は、確実に笑っているのだろうことが見て取れる。不思議な人だと思った。たんたんと身軽に階段を上っていく。

そう良いわけでもない耳をすませていたら、扉をあけながら何か言葉を発する彼の声が聞こえてきた。それではやはり、先程の男は今までもずっと部屋にいたのだ。最低限のものしか置いていない部屋で何をしていたのだろう。何もしらない、ある意味では得体のしれないものは、おれの興味をひくばかりだ。それでも、ああいう類の人間に関わってはいけないことを知っている。深入りしてはいけないことを知っている。

(…海賊、って、なんだろう)

今の時代が大海賊時代と呼ばれているのは周知のことだった。おれだって分かっている。それでも、おれはこの場所から外に出たことがない。彼らに会う機会などほとんどない。ニュース・クーの新聞にのってやってくる、夢物語のような冒険譚。

食堂の椅子に座ってぼんやりと考え事をしていたら、いつの間にか随分と時間がたっていたらしい。降りてきていたらしい海賊の男がこつん、とテーブルを叩く音に、おれは慌てて立ち上がった。がつん、椅子に足を強かにぶつける。痛い。

「ご、ごめんなさい、何かご入用ですか?」
「いや…こっちこそ悪い。少し外に出てくるから、もし夕飯を出す予定があるなら心配いらない」
「はい、分かりました」
「それと、少し気になることを聞いてもいいか?」
「はい。僕にお答えできることでしたら」

前掛けのしわを払って両手をそえて、おれよりも少し背の高い男を見返した。ふとももに巻かれたベルトに拳銃がひとつ、武器はそれきりだ。つなぎの中に何か隠せるものなのかおれは知らない。男は袖口を少し引いて扉を気にしながら、低めに出した声でおれに問うた。

「この島は、海軍に守られてるらしいと聞いた」
「そうです。僕はお名前を伺ったことはありませんが、時折こちらにいらっしゃると」
「地位はどのくらい?」
「将軍さまだと伺っています。確か、中将閣下かと」
「中将…そうか」

男は持っていたらしい電伝虫に向かって小声でいくつか言葉を落とすと、おれに向かって新聞はあるかと聞いてきた。意味は分からなかったが断る理由もなかったので、こちらにありますと保存箱から出して手渡す。

「記録はどのくらいでたまる」
「一週間と二日です。誤差はありません」
「…把握した」

記録指針を見ながら逡巡した、男は航海士なのだろうと思う。しきりに時間を気にする動作が目についた。おれが見ていても気にする様子ではない。食事を作らないならこの後は暇になってしまうなと、おれが思ったのはそのくらいだった。

「…お前」
「? はい」
「おれが怖くないのか?」

唐突に、この人の瞳が見えた気がした。おれを真っ直ぐに見る、その強い光。おれに対する警戒心。おれは見るからに一般人で、小さな宿屋を切り盛りするだけのただの子どもだから。…そんな男の様子を見て、おれはどこか、嬉しく思った。

「僕を敵だと思っていただけるんですか」
「…不思議な言い方をする」
「失礼いたしました。僕は、ただの宿屋の跡継ぎです」
「跡継ぎ」
「両親はすでに他界しております。海賊の方は、記録の届く隣の島で留まることがほとんどでしたので、こうして直接お会いするのは初めてです」

お客に向ける用の笑顔でそういえば、男はやっぱりな、と呟いた。おれを海賊だと分かっていたんだろう、という呟き。

「海賊の方は、こんな宿屋にも押し入って物取りをする方が多いのですか?」
「…それは、おれに対する質問ととっていいのか」
「どちらでも」
「おれはしない。うちの船長は、そういうことで稼ぐのには興味がないんだ」
「…そうですか」
「意外か」
「…いえ。大人たちから聞く話は、いつも物騒で仕方がないので」

何もしないと、そういえばこの男は初めにも言った。最初から、彼はおれに対して礼儀を持っていたように思う。むしろ怯えていたのはおれの方だ。それはどこか、大人たちや海軍の人たちが言う海賊とは、どこか遠い存在のようだった。

でも、と彼を見る。掲げた海賊旗の印、さげた拳銃、おそらく鍛え抜かれているだろう肉体。戦いの中に身を置く、海を知るその知識の箱。おれが住む世界ともかけ離れた、この時代を生きているひと。

真っ白なつなぎでどれほどの血を流して来たのだろう。それでも男は、何もしないと真っ赤な手で笑うのだ。ふうん、と少し笑うような表情をした男に、そうですね、とおれも返す。

「…彼らから聞く海賊よりも、あなた方のほうが、余程興味深い生物だと思います」

瞳を見つめ返してはっきりと言う。光が差し込んで少しだけはっきりと見えたその顔は、思っていたよりもずっと若く笑みをつくる。なるほどなと言った、その声は確かな感触を含んでいた。壁にかかった掛け時計が、その分針をひとつ未来へ進ませて。

「おっすー。…って、まだここいたのか」
「ああ。もう行く。…時間を取らせて悪かったな」
「いいえ。こちらこそ、お時間を頂きまして」
「なんか喋ってたの?」
「まあな」
「楽しい時間でした。お仲間さまも、どうかお気をつけて」
「ん、おう。サンキュ」

二階の階段からどたどたと降りてきた男の仲間にも礼をして、お早いお戻りをと口上を告げる。数歩先に行った仲間の男が振り返る間もないくらいに短い時間、男がすっと立ち止まった。振り向いておれを見る。少しだけ悪戯心を感じるような雰囲気に、おれも首を傾げて動きを止めた。男が言う。

「お前、うちの船に乗らないか」

予想できていたような、予想外の言葉のような、不思議な響きを持つその言葉に、おれは今度こそにっこりと笑い返した。名も知らぬ海賊と、宿屋の主のおれ。

「僕の居場所は、昔も今もこの宿です」

どうかお早いお戻りを。真っ直ぐに礼をしたおれに、海賊はただ、ああ、と頷いただけだった。
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