「行かないのか?」
「……残る」
「そうは言ってもな」
小脇にいつも持っている紙束を抱え、ペンギンは甲板の手すりの間から顔を出して動かないおれにため息をついた。
「船長にシャチを連れて行けって言われてるんだ。だから来てくれないとおれも困るんだけど」
「行くも残るもおれの勝手だろ」
「それはそうだけど、船長の命令の方が強制力はあるぞ?」
「知らない。……行きたくない」
しゃがみこんで手すりの柱を両手で握って、出来るだけ小さくなるようにぎゅっと丸まった。目の前に見えるのは地面、今は島について二日目の夕方だ。この島の記録は一週間と三日でたまる。その間ずっと、おれは船にいるつもりだった。
「うまい食い物とか、酒とか……はまあ興味ないかもしれないけど、お前だって船にいるばっかりじゃつまらないだろ」
「つまるならいいのかよ」
「あー、むしろつまるのは気とかじゃないか」
「船にいる。それ以外は別にいい」
「……埒があかないな」
はあ、困ったように息をはくペンギン。むしろ困りたいのはおれの方だ。船の上は波に揺られてゆらゆらとしていたが、一度島の上に降りてみて初めて知った。島は、揺れない。それが不安だった。次々と降りていく船員たちの背中を見送って、気づけば船には船番のやつ以外誰もいない。
やることがあって遅くなったペンギンよりも、おれはもっともたもたとしている。それでも船を降りる気にならなかった。どうしてだか、島の上は怖かった。でもそんなことは言いたくない。
「――ぐだぐだうるせェな」
眠たげな声がして、振り向こうとした頭を押さえつけられた。そんなに力は入ってなかったけど、ちょっとだけぐえってなって帽子がずれた。なんだいきなり。思って見上げた、その船長の顔が、おれを睨んでるみたいでちょっとこわかった。
「何駄々こねてんだ、お前は」
「だ――だだじゃない!」
「おれはペンギンにシャチを連れて行けと言ったんだ。なら、ペンギンがお前に言うこともおれからの命令と同義だろうが」
「知らない、そんなの」
「――…シャチ。聞き分けろ」
睨み返したおれのあごを、船長が掬って視線を合わせる。吸い込まれるようなアッシュの瞳。船長の海に泣きたくなるおれを、船長はきっと知らない。その目はおれを睨んでるわけじゃなかった。船長はただ、おれを船員として差別しないっていうだけだ。
何も言わない船長を見返して、おれも何も言わなかった。意地を張ってるんじゃない。駄々をこねてるんでもない。それでもこの人に弱音をはくのはいやだ。それだけの矛盾を、どうしてだか、船長に分かってほしくて。
船長はそうやってしばらくの間おれを見て、それから静かに息をはいた。目を閉じる。瞬きもしなかった数瞬を思って、おれもまた俯いた。心臓がうるさい。感情を揺さぶられる、船長の瞳がこわかった。それはきっと、おれには分からない理由で。「…シャチ、」静かに呼ぶ声が諦観を含んでいないことに気づいて、おれは顔をあげた。
「……お前は、どうしたい」
「…なにを」
「おれは、お前に島に降りろと行った。ペンギンと一緒にな。それのどこが嫌なんだ」
「……島に、降りたく、ない」
「それは却下だ。他には」
「――…っ、」
手すりに寄りかかっておれを見る。その向こうで、ペンギンが持ったメモを読み返していた。船長への言葉より、周囲の空気が気になった。息がしづらい。叱られているみたいだ、と思った。船長と話してると胸の奥がいたい。できるだけゆっくりと息を吸って、吐いて――それでも逸らされない視線に、おれは重たい口を開いた。
「……船長となら」
「ん?」
「ペンギンがいやなんじゃない、けど。……船長となら降りる」
「…それだけか」
ん、頷く。揺れない地面は不安だった。海から遠くなるのが怖かった。だから、隣にいるのがペンギンじゃ、おれの不安は晴れなかった。どうしてだろう。ペンギンだって、おれのこと、心配してくれるのに。……そう思ったけどやっぱり、おれにとって、ペンギンは同じクルーだった。おれはガキだから。人間でもないから。やっぱりどうしても、安心できなくて。
こつり、船長の靴が甲板を叩く。半分だけ顔をあげてそれを見れば、船長は船内に戻っていくところだった。みすてられた、と反射的に思う。震える手のひらを握る。せんちょう、声を出そうとしたら、それよりも早く船長が振り向いた。
「――刀を取ってくる。そこで待ってろ」
「…え、」
「おれとなら来るんだろう?」
たまにはおれが行くのもいいかもな、おれとその後ろのペンギン、両方に向けて船長が言う。ペンギンは「船長も荷物持ってくださいね」と笑いながら返していた。肩をすくめる船長に、もう怒ったような気配はない。
「……船長」今度はちゃんと声にできた。立ち止まらない背中を見て、ツナギの胸元のマークを握った。おれ。おれはちゃんと、船長のクルーでいられるだろうか。どうする、と言いたげなペンギンを見返して、「…降りる」言い訳するような声で言えば、ペンギンはなら良かった、となんでもないような笑顔でおれに手を伸ばした。