※魚人シャチ







苛立ちが収まらなかった。

おれをいともたやすく組み敷いて、その上に座った男をぎっと睨みつける。体重はかからないようになってるのかそれともこいつ自体が軽いのか、その態度すらおれの神経を逆なでする。男はおれの上で足を組んだまま、何が楽しいのかにやにやと笑っていた。

「大概こりねェな、お前も」
「懲りる懲りないじゃない、ていうか降りろ」
「おれに命令するな」
「っ、…このクソヤブめっ」

背筋だけで叩き落としてやると思ったが、病み上がりの体ではどうにも上手く力が入らない。知らない船に見つかって襲われた、槍が深く刺さっていた傷はもう白い包帯の中に隠されていた。傷は痛み、熱を持っている。

「おれは死ぬはずだったんだ、それをアンタが勝手に助けて……っ、それだけだろ! 分かってんじゃねえのかよ、おれは海に帰る!!」
「お前の家はもうここだ。行きたきゃ勝手にすればいいが、帰る場所はここと思え」
「おれが選んだわけじゃない!!」
「お前に選択の自由があるとでも思ってるのか?」

そいつ――この船の船長であるトラファルガーは、心底愉快そうにおれを見下ろす。

「お前はこの船に流れ着いた。そこまでの人生はお前のモンだろうが、この船に乗船した時点でお前の全てはおれのものだ。それ以外は何をしようと構わねェが」
「おれは――おれの家は、」
「逃がすと思うなよ。おれを殺したきゃ勝手に努力しろ」

おれを突き倒した時とは裏腹に、衝撃もなくすっと立って背を向けた。片手にはいつも同じ刀を携えている。それがおれを傷つけることはないと知っている、こいつがおれを気にかけているのを知っている、それでもおれは帰らなければと思うのだ。――…たとえ故郷に、おれの帰る場所はもう無くとも。

船の中に入ることを嫌がり、こいつを見れば歯向かっていく、そんなガキを乗せてこいつはどうしようと言うんだろう。おれは未だ、全くもって船のことなど分からないし、船員と仲良しこよしでこいつに仕える気も全然ない。それでもこいつはおれに構った。何もしなくても、船員たちだって何も言わない。それが歯がゆい。今すぐ海に叩き落としてでもくれればいいのに。

「――…あァ、そうだ」

思いついたように立ち止まる、そいつにおれは身構えた。死ぬことに恐怖はなくても、痛みには本能的に恐怖が勝った。殺意のない相手に警戒するのは気持ちが消耗する。それでもおれは、この場所を安心と思えなかった。

「言い忘れていたが、この船でのクルーの原則だ。相手のことは名前で呼べ」
「……は?」
「おれのことを船長と呼ぶ気がねェなら、キャプテンでもなんでも、お前の自由に呼ぶと良い」
「……アンタを、なんて呼べばいいの」
「なんでもいいと言ったろう。同じことを言わせるな」

拍子抜けした命令に、おれは眉をひそめた。おれの答えを待つように、そいつはそこでじっとこちらを見ている。その目に奇異や好奇心がないことに、おれはどうしても動揺した。こいつは人間だ。それだけがどうしても、おれには。

「…船長」
「ん」
「おれは、船長を、いつか殺してやる」
「そりゃまた随分な野望だな。気長に頑張れ」
「……船長って変な男」

褒め言葉として受け取っておく、軽く言って肩をすくめる。船内に入る直前、振り向いておれを見た。「今日も入らねェのか」いつもとは違う、少しだけ重たい声だと思った。潜水艦なだけに大きくできているドア。おれはその向こうに入れない。

「そこにいるなら、ペンギンから毛布をもらっておけ。今日は冷える」
「…寒いのは平気。おれは海の生まれだから」
「生まれは関係ねェのさ。おれだって北の海出身だしな。ただ、怪我人を放っておくのは、医者の性分として気にかかる」

トラファルガー、船長は、ポケットから何かを出しておれに放った。ちきん、乾いた音で着地する。そうっと伸ばして触れたそれは、小さな鍵だった。少しだけぬくもりを感じる。船長の目を見返せば、それ、と鍵を指さして。

「お前の部屋の鍵だ。場所が知りてェなら、このまま案内するが」
「……いらない、こんなの」
「それがいらねェならペンギンかベポと相部屋だ。それも嫌だっつうなら、廊下に寝てもらうことになる」
「おれ、」
「つべこべ言わずに寝ておけ。それとも患者室がいいか? 物好きなやつだな」

呆れたように言われて、手の中の鍵をぎゅっと握った。おそらく、こいつには何を言っても無駄なのだ。張り合うだけ無意味。おれはのろのろと起き上がって、黙って船長の後ろについた。満足げに笑うその表情さえも苛立ちに変わる。

案内された部屋の前には、小さなプレートがかかっていた。「ここは空き部屋なんだ、今のところはな」何も書かれていないプレートを前にして、その表面をなぞる。

「お前の名前でも書いておけ。この船には馬鹿が多いから、酔った時なんかに侵入されることもある」
「…何それ。意味ねえじゃん」
「文字が読めないほど泥酔することはそうねェが」

馬鹿だろ、言うその表情は愛しさ以外の何物でもない。それに胸が痛んだ。唇を噛んでいないと罵倒してしまいそうだった。そんな自分に、おれは一番腹がたつのに。

「…おれ、字書けない」

俯いて、言う。なぜだかとても恥ずかしかった。こいつの、この人の前で、出来ないと言うのがかなしい。そう思いながら言った言葉は、船長のそうか、という軽い声でふたをされた。

「書けないだけか」
「…うん。読むのは、簡単なのなら」
「なら、おれが書いておく」

さっき鍵を出したポケットから、今度はメスを取り出した。そのポケットにはどれだけ物が入るんだと思ったが、船長がもう一度おれを見たので何も言わなかった。船長の深い灰色の瞳が、光ってどこか懐かしかった。

「名前は」

おれがそういえば、と思うくらい、船長はおれの名前を呼んでいたように錯覚していた。そういえば船長は、まだおれの名前を知らない。利き手にメスを持って(それで彫りでもするんだろうか)、おれの答えを待つ。その顔はおれが策にはまったとでも言いたげであり、また純粋におれと遊んでいるようにも見えた。ただ、せつないほどに海を思い出す男だ、と思った。おれはこいつに溺れたくはない。

「――…シャチ」

少しだけ深く笑んだ船長のピアスが、よくできましたとばかりにキラリ、光った。





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