※ローとペンギンの過去話













「スクールの秀才が夜遊びか」

不意に落ちてきた声。目的もなく動かしていた足を止め、そのまま振り返る。路地裏に溶け込むような闇、その中心に。

「……大病院の跡取りが夜遊びか」
「おれはいいのさ。うちは放任主義だからな」
「ものは言い様だな」

立ち止まってにやにやとおれを見る、この街一番の大病院の一人息子がいた。トラファルガー・ロー。代々最新鋭の医療技術専門班を抱え、医療大国ドラムに次いで信頼のある医療施術を行うというトラファルガー家の長男。本人も幼い頃から医学に関する書物を読みあさり、趣味は解剖や解体だという。悪趣味の一言。

「それで、また解剖対象でも探してるのか」
「質問したのはおれだ。ここで何してる」
「……質問された覚えはないが。強いていうなら、海を見に行くところだ」
「ほう」

ため息まじりの言葉に、ローの片眉が興味深そうに上がる。嫌な予感。口を開きかけたおれを無視して、ローは持っていた鞄を思い切り投げ渡してきた。反射的に受け取る。衝撃で揺れた中身はチャリチャリと軽い音を立てる。…刃物の音しかしない。

「…なんだこれは」
「遊び道具が入ってる。落とすなよ」
「自分で持て、このくらい」
「おれに命令するな」
「……悪かった」

注意すら命令にとられる。おれはお前の親でもティーチャでもない、首元にあてられたメスを押し戻しながら思う。それは言えないことだ。ローにはきっと分からない。背を向けて歩き出したローに、おれも黙って続いた。

わざわざ暗い道を選んで、ローは海に真っ直ぐ歩いていく。手ぶらな片手にメスを転がしながら。物騒だからやめろと言いたいところだが、また首を切られかねない。おれの片手に下がった刃物の数を考えて、むしろおれの方が不審者だと頭が痛くなる。

「ロー」
「なんだ」
「そっちの道から行くと、夜間警備につかまるぞ」
「…見張りか。……面倒だな」
「裏手から回ろう。道ならどこにでもある」

横の道を、数歩だけ先に行って止まる。気にすることもなくすぐ追い越した背中を、やれやれと思ってまたため息をつく。ローの夜遊びは今に始まった話じゃない。夜遊びといっても、いつの間にかひとりでぶらぶらと出歩いていつの間にか帰ってくるという、…言い方を選べば健全な遊びだ。その目的が死体の解剖だとしても。

路地裏を抜けて海に出ると、暗闇の中に揺れる波が目の前に広がった。波には何も不純物はない。少なくとも、目に映るその青には。どこまでも自由な細かい水の粒。深夜とはいっても晴れた空に、海はとても雄大に見えた。

「夜の海、ってのはまた表情が変わるもんだな」
「見ていて気分の良いものじゃないが」
「へェ。ならお前は、その面白くもねェ場所に何を見に来てる」
「塩化ナトリウムと塩化マグネシウムと硫酸マグネシウム、それから硫酸カルシウムと塩化カリウム。あとはその他化合物による構成物質」
「夢がねェな」
「海なんかに夢を抱いてどうする」

くだらない。吐き捨てるようにすれば、ローは楽しそうにおれを見て笑った。何が面白いのかは知らないが。それでもおれは真っ直ぐに海を見た。

「……この先には何が有るんだろう」
「それが、お前の興味ってやつか?」
「そうじゃない。ただ、――…ただ、おれはこの島で生まれて、この島で死ぬ。それがどうしても」

耐えきれないんだと、言葉にはしなかった。それでも、隣に立つ幼少からの友人は、何も言わずにまた海を見た。揺らぐ海面。その下には何がいるかも知れない。おれには知る機会も技術もない。この向こうには何がある? おれの知らない世界の姿を、おれは知らないままに生きて死ぬ。

「…無駄な生だと思うんだ。与えられた命があるだけで、平和なままに一生を終える。…きっとおれは思う、意味のない一生だったとな。親に感謝の念がないわけじゃない。ただ、」
「………」
「…この時代に生まれ、陸で生きる。それがどうしても、おれには虚しい」

よくあるガキの、夢にあふれた空っぽな感情だと思う。自分のいる環境を窮屈だと思い、殻を破りたくなる。この地で生きることは有意味無意味ではなく、おれに落とされた運命だった。そこから一歩も踏み出せない。おれには力がない。ないことを、言い訳にしてこの地にいる。

ローはおれの話を聞いているのか聞いていないのか、手の内にあるメスを未だにくるくると回していた。興味のない話だったんだろう、と思った。基本的に、ローは誰の意見も聞くことはない。それでいい。上に立つものは、そうでなくては。

「……もうじき卒業だな」

唐突に、ローが口を開いた。案の定全く別の話題だと思ったが、ローの視線は強く海に注がれている。その目はどこまでも遠くを見る。今更に気づいた。そういえば、ローはいつも、海を見ていた。

「スクールか」
「ああ。くだらねェ話ばかり聞かされてきたが、ようやくこれで自由になれる」

おれたちの腕には国民識別チップが埋め込まれていた。スクールに通う年齢であればこれが義務にあたり、居場所も滞在時間も全て記録されることになっている。おれたちは二人とも国の特別指定生のため、記録が通達されてもすぐさま保護されるなんてことは有り得なかった。たかが情報。されど情報。おれたちはいつも、この国に監視されている。

チップはスクールで毎朝確認が行われる。故障でもしていれば即修理に行かされ、場合によっては謹慎になる。スクールを卒業してもチップの保持は義務にあたるが、そのチェックはもう必要がなくなるのだ。非保持は大罪になる。だが、チェックの義務は年に一度。だからこその、抜け穴がある。

「…チップを捨てでもするのか」
「おれは、」

ローの利き手がメスを持つ。チップが埋め込まれている腕に、突き立てるようにして刃をあてた。そのまま抉り取ってでもしまいそうなほどの力。それでも刃は、ローの腕を傷つけない。おれは。心底愉快そうな表情で。

「おれは、海賊になる」

驚きもしなかった。現状が窮屈であるのは、ローとおれの状況を見れば明白だったからだ。ただ、このまま真っ直ぐに生きれば医者として生きていけるローが、無法者を選ぶ。それはどこか矛盾したような選択だ、とその横顔に思った。

解剖や解体が好きなその腕が、自らの腕を落としたいと歓喜に震える。ローはその手でメスを力強く握り、一瞬の間のあとに指先を思いきり切り裂いた。真一文字に傷が走る。切り落とさなかっただけマシか。目の前で作られた傷にも、おれのうちに驚きはなかった。


「ペンギン」


ローがおれの名を呼ぶ。物心ついてからスクールにいたおれたちは、全く別の人種だといわれながらも離れることが出来なかった。理由など分かりきっている。おれが、おれ自身が、ローのもつ引力に逆らうことができなかったのだ。この、絶対なる支配者に。


「お前も、来るな」


断言されたその言葉。伸ばされた手のひらは真っ赤に染まっていた。痛みを感じてもいないようなローの目を見つめ、おれはただ息をする。波が揺らぐ。おれもローも、今の時代の意味を分かっている。ゆっくりと、ただ音もなく。

「……世界の果てまで。船長」

誓いはただ血の味がした。海に抱かれたこの男が、いつか頂点に立つことを。海の最果てに、この男が立つことを。いつかのその日まで、この傍らに居ることを。

夜明けが近かった。うっすらと白んでいく水平線。手の届かない場所にある、その全てに想いを馳せる。ローの手から零れ落ちるそのあかが、伸ばしたそこから海に溶ける。細めた目にうつるそのあお。ローはきっと、全てを手に入れる。その時おれは、初めて心から生に感謝するだろう。


おれの世界はこれからもっと、色鮮やかに広がりを見せる。

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