ふと、音がしたような気がして顔をあげた。


甲板で乾きたての洗濯物をカゴに積んでいる時だった。使い終わったひもをまとめてくるくると巻いていると、耳の奥の方で確かにこぽ、だかごぽぽ、だか、そんな音が響いてくるのに気が付いた。おれの耳は自分では意識しないような音も拾う。普段は何の音だろうと思うだけだったが、今回のそれはなんだか不穏な気配がする、と思った。ごぽ。泡の生まれる音。

「…なんだろう」
「う? どしたのーキャス」
「なんか変な音しない?」

手元でひもを束ねてカゴの上に投げる。一緒に洗濯物を片付けていたコハリに問うても、コハリは不思議そうに首を傾げるだけだった。ついおれまで首を傾げてしまう。

甲板はそう静かというわけではないが、今は波も凪いでいて鳥が鳴く程度の静けさだった。自然おれの耳も余計な音を拾いやすくなる環境だが、いかんせんおれは目があまりよくない。甲板のふちから下の海を覗き込んでみたが、気になるものは何も見えなかった。ただ耳の奥で、ひたすらごぽぽ…と泡が泳ぐ音が聞こえる。間断なく。

やっぱり不思議な感じがして、ここが偉大なる航路だということもあって、おれはポケットに入れておいた室内用小型電伝虫に中にいるサラワにつないでもらった。なんとなく、この場を離れる気がしなかった。

『はい、こちらエス』
「こちらシーケー。今甲板にいるんだけど、ちょっと出てこられないかな」
『甲板ですか? 問題ありませんよ。すぐ行きます』
「うん。ありがとう」

通話を切って、もう一度海を覗き込む。やはり何の影も見えなかったが、泡の生きる音はほんの少し近づいたように感じる。肌がざわついた。空を見上げてみても、晴れた空には雲が悠然と浮かぶだけだ。

奥からサラワが出てくるのと入れ替えに、コハリに奥に戻ってもらう。洗濯物のカゴを抱えて出ていくコハリは、少し心配そうにおれとサラワを振り返っていた。安心させるように笑ってから、サラワを甲板のふちまで引っ張っていく。

「どうしました、突然」
「…さっきから変な音が聞こえるんだ。何か、こぽこぽって感じの」
「それは…泡の音、ですか」
「多分。よく分からないけど、…何かの呼吸音みたいにも聞こえる。もしかしたら、海底から何か近づいてるか、それとも」
「違う船が近づいているか…ですね」

うん、と海を見ながら頷く。海の底はさっきと変わらなく見えた。それでも泡の音はどんどん増えて、更に近づいたように聞こえる。何かの姿は見えない。その矛盾がもどかしくて、何も言わないままサラワを見た。深海を覗くその瞳は、その青をうつしてすぐに、すっと細められた。

「…これはこれは」
「…何か見える?」
「見えるどころではありませんね。…すぐに船長さんに知らせましょう。緊急避難ができれば儲けものといったところです」
「は!? ちょ、何がいたの!?」

珍しくうろたえるようにしておれの腕をつかんだ。僕も初めて見ますよ、と息だけで言葉を紡ぐ。

「巨大魚です。おそらくは海王類の一種でしょう」








「巨大魚が来るらしいな」

船長室に連絡を入れてすぐ、甲板に全てのクルーが集まった。海の下を覗き込んだままのおれを咎めることもなく、船長はサラワに状況を聞いている。海面にはまだ何の変化もない。この状態で視認できたのはサラワだけなので、それだけの情報でどうにか全員が現状を把握できるようにしなくてはならない。

「距離にしてはまだ分かりませんが、少なくとも料理人さんが音を確認できるまでは迫っています。僕が見た限り、大きさはこの船を周囲ごと丸飲みできる程度かそれ以上」
「そりゃデケェな。…キャスケットにはまだ見えねェか」
「見えないです。ただ、音は確実に近くなってます」

おれの視力は普通より弱いくらいで、船長もおれの目を頼りにしているわけではない。ただし、おれの耳では聞こえていて、おれの目でも見えるとなれば、それはもう手遅れという他ない。今現在、おれには影すら見えていない。ということはまだ回避するための時間はある。

潜水艦は確かに前に進んでいる。それでもサラワいわく、その巨大魚は船を見失わずに近づいている。あちらからはこの船が確実に視認できているのだ。おれたちはその正体も分からず、どうにかする術を模索するしかない。

「偉大なる航路の巨大魚…なァ。姿は見えるモンなのか」
「透けているという印象はありませんが。光の反射によるものなのか、若干の歪みは感じますね」
「なるほどな。…ペンギン、ちょっと覗いてみろ」
「はい」

おれが覗き込んでいる隣から、ペンギンが下を覗き見る。帽子のつばを少しだけあげて、目を細めて一点だけを凝視する。「…っ、うわ」小さく呟いた声は、いつものペンギンらしくない、焦ったような声色で。

「どうだ」
「見えませんが、気配は感じました。相当大きいです」
「波の様子は」
「現状、問題はありません。この下にも目立った海流はないようです」
「…潜れるか」
「可能です。ただ、――…困難ではありますね」

口元に手をあてる、ペンギンと船長の周りがすごく嫌な感じのオーラに包まれる。この間にも、ごぽごぽ、という音は着実に接近を見る。サラワはもう覗き込むのをやめていた。見ているばかりでは意味がないと悟ったのだろう。クルーの身体能力を考えれば泳いで逃げるという手もあったが、この船を手放すことになるならここで食べられても同じことだ。沈黙が下りる。

俯くようにして考えていたペンギンが、ゆっくりと顔をあげて船長を見た。船長はすごく苦しそうな表情で、ペンギンと視線を交差させる。それからおれとサラワを順番に見て、もう一度顔を手で覆った。おれもサラワと目を合わせる。ペンギンがゆっくり、船長、と言った。

「…回避できる可能性としては、一つしかありません。船長にしか出来ないことです。…やるかやらないか、あなたが決めてください」
「船長、おれは大丈夫です」
「僕も異議はありません。ご随意に」
「………お前らな」

おれがどれだけ、といった語尾は船長の口の中に消えていった。おれにも聞こえなかったから、きっと言えなかったんだと思う。おれたちはもう何も言わない。だってそれでも、おれたちは船長のクルーだから。

「…全員、配置につけ。潜水準備」
「「了解!!」」
「キャスケットとサラワに命綱を。漏れがないように船内まで配備、手前は同等重量の重石か何か繋いでおけ」
「アイアイキャプテン!」
「二人は各自、感じる場所と範囲を特定。なるべく引き寄せたいが、お前ら二人の命の方が重要だ。範囲に入った瞬間に入れ替える」
「はい」
「了解です」
「無駄なことは考えるな。…必ず守る」

サラワと二人で、はい船長、と笑って見せる。この船にいる限り、不安なんて何もなかった。











腰に巻かれた綱を握って、甲板のふちに座り込んだ。視界を完全に遮断する。瞳の裏に熱を集めて、一気に燃え上がるイメージ。感覚が広がって、音が一気に鋭く、近くなる。波も静かな海の真ん中で、ただ静かに上昇を続ける影をとらえた。

「…聞こえますか」
「うん。普通の魚と呼吸の数が違う…なんだろう、クジラに近いのか分からないけど、呼吸以外にも何か空気を出す生物なのかも」
「僕たちには分からない種、ということでしょう。研究家さんならご存知かもしれませんが」

一際大きく、ちゃぽん、と海面にぶつかる音がした。サラワが石か何かを落とした音だろう。それは少しの間波とこすれるように下降して、それから――…ばきり、という音を残して消えた。想像以上に早い。

「随分近づいてきたねー」
「ええ。というより、石ひとつ砕くのに時間を全く要していません。口が大きい割に、飲み込まれるのは早いかもしれない」
「油断してると丸飲みかあ」
「出来れば味わっていただきたいですよね。丸飲みでは風味もあったものじゃありませんし」
「この船のないぞーとか、やっぱり苦いのかな?」
「というより、硬いと思いますよ。他の船より、ましてや魚よりはずっと頑丈ですから」

目を閉じたまま、二人で笑う。おれとサラワは、先遣隊や隠密隊としていつも行動を共にしていた。どんな島に入ろうがどんな海賊や山賊のアジトに潜伏しようが、二人でいれば必ず情報を集めて船に帰還することができた。おれもサラワも、戦い自体にはあまり参加しないことが多い。そういうのはベポとかペンギンとかの仕事で、おれは船長と一緒にいるときは真っ先に敵に向かうけど、それ以外は適材適所って感じで別のことをしてることが多かった。

それでも、一番危険な場所に行くのはおれとサラワだと、うちの船では決まっている。先遣隊だからという意味じゃない。おれたち二人が組むことが、この船にとって最も有益なのだ。おれはそれが、すごく誇らしかった。

「入れ替えるってことは、一瞬沈むのかー。サラワの楽器、さっき渡しといてよかったね」
「僕の笛は水には滅法弱いですからねえ。まあ今回は、泳がなくていいので半々ですよ」
「ちょっと肌寒いけどね」
「それも、情緒というやつです」

二人して、いつもの癖でのんびりと話をしていたら、おれのすぐ隣で電伝虫がぷるぷるぷる、と鳴いた。張りつめるような感覚の中で響くそれは、電波に乗った音さえ拾えそうなほど。耳から作り出す視界のイメージで、しゃがみこんだまま受話器を上げた。

『こちら船内、ピーより。お前ら、あまり無駄口ばかり叩くな』
「はーい、こちらシーケーでーす。無駄口じゃなくて緊張緩和のための相互作用だよ」
『それを無駄口と言うんだ。エス、相手の様子はどうだ』
「こちらエス。もう随分接近していますよ。捕食の動きは俊敏ですが、遊泳速度は遅いようです」
『了解』

耳から入る情報は、もうごちゃごちゃと混ざり合ってうるさいくらいだった。小魚たちが慌てたように散っていく。その中を、肌がざわめくくらい大きい影がゆっくりと上昇していた。サラワは遅いといったが、それでも予想より、というだけの話だ。巨大魚は一定の速度を保ったまま、確実にこの船を飲み込もうと接近する。

『波が荒れてきた。これから多少揺れるだろうが、なるべく振り落とされないように留意しろ。流されることがないと思って油断するな。おれからは以上だ』
「アイアイサー」
「了解です」

ペンギンとの簡単な応答を終えて、その向こうで交わされている会話を拾い上げる。装甲異常ありません。航行機器、潜水準備万端です。いつでもいけます。分厚い扉の向こうは、こちらと違ってどたばたと騒がしい。がさごそ音がした後で、一際ぴんと張った糸のような、船長の真っ直ぐな声が聞こえた。

『こちらエル。今から範囲を広げる。エス』
「はい」
『見える範囲で構わねェ。お前が危険だと思うギリギリまで引き寄せろ』
「了解しました」
『シーケー』
「はいっ」
『領域と海面の摩擦音を聞け。出来うる限り球体で広げるが、幅を予測して同程度入ったところで合図を出せ。足りなくても構わねェ、とにかく回避とお前ら二人の命を最優先させろ』
「アイサー!」

電伝虫は切らないまま、手すりのふちにそっと置いた。流されてしまう危険性もあったが、つなぎの中に入れて置いて指示伝達ができないことの方が最も危険な行為だ。念のために持っていた紐でつなぎと電伝虫をつないで、もう一度座り込む。波が少しずつざわめきだす。サラワは帽子をつなぎに結んで、ただじっと海底を見つめていた。

ごぽり。耳の奥の呼吸は、もう目の前まで迫るようだ。おれの信じる者の名前を呼んで、静かに祈った。電伝虫から、低い声が伝う。


『――"ROOM"!』


一気に広がる守護の光は、きっとおれたちを守ってくれるから。










弦を弾くようなブウウウ…という音が響く。船長の能力で作られたドーム型の薄い膜が、海面からその下へと入り込む。海面で分断された水同士がその手前でぶつかりあって、びびび、びびび、と小鳥の鳴き声のようにおれの耳に伝った。

音を聞く間にも、円はじりじりと範囲を広げていく。船長が初めて能力を使った時はもっと狭い円しか作れなかったらしいが、今ではもうかなりの広さの円が一瞬にして広がるのを見ることができる。船長の能力は好きだな、と思った。超人系でも派手なわけじゃなくて、かっこいい船長にすごく合ってると思う。

おれも役に立たなくちゃ、と思って、また音に集中する。球体になった"領域"は、その範囲を広げながらじりじりと進む。船長の能力は円か球体でないと作れないため、下だけに伸ばしていくことはできない。上へ上へも伸びながら、海の真ん中でどんどん拡大する。

ごぽり。一際大きく、泡が吐き出された。ぞわ、背筋を駆けのぼるような悪寒。「…くる、」思わず零したおれの声に、サラワが息だけではい、と答える。つなぎの首元を握って、耳をすます。サラワにははっきりと見えているもの、その影を音だけで構築する。びびっ、びびっ、張りつめて爆発するかのように領域が悲鳴をあげる。もう船の大きさすら超えて広範囲に広がっているというのに、あの影を取り込める気が全くしない。遠近感を狂わせる形状でもしているんだろうか。

本能がどこまでも逃げ出したいと訴えていた。今までたくさんの生物を見てきたけれど、この偉大なる航路はその想像をいくらでも超えてくる。何度も遭遇した生物たちの、そのどれでもない悪寒。冗談じゃない大きさの水棲動物もいると話には聞くが、遭遇したいと思ったこともなかった。

最早その尾びれが水をかき分ける音すら聞こえる距離に入っていた。腰に巻きつけた縄を握りしめる。そのひれの往復速度、呼吸の数、何よりも作られる泡の弾ける音が、おれにとってはどこまでも気持ち悪かった。

ギリギリまで引き寄せなければ意味がない。それは、相手が気づいてこちらを追ってくるまでに、どれだけの時間稼ぎができるかということだ。潜水して漕げば逃げ切れると決まったわけじゃない。それでも、潜水艦には武器も煙幕も積んである。ここを逃れなければおれたちに後はない。例え逃げたくても、おれたちは今、乗船員全ての命を預かっているといっても過言ではないのだ。

渦のような影が迫る。領域はもうじりじりと速度を落としているが、それでもまだ広がりを見せる。海面を跳ねる水滴の音を聞く。おそらく、もう真っ黒な影がおれたちの船を支えているはずだ。それほどに迫る。船が揺れて、電伝虫の受話器がこつりと鳴く。波の流れが変わる。プランクトン同士がぶつかりあい、引き込まれ、いなくなる。息をのむほどの静寂。泡がはじける。きしむ音。

おれとサラワが叫んだのは同時だった。


「「――入った!」」


『"シャンブルズ"!!』


直後、息を止める余裕もないまま海中へと投げ出された。がぼ、反射的に海水を飲み込む。突き刺さるような痛み。それでも目を開く。太陽光のにじむ海面は、…そこにはなく。

(…なんだ、あれ――!!)

巨大な魚。一言でいえば、それだけだった。それはふぐのような体型をしながらも、真ん中の骨が透けて見えている。胸びれと背びれの間からも泡を吐く、体の半分以上が口で出来ている巨大魚。見たこともない、というより、想像したこともない生物だった。地上にいれば息をのんでいる。

――瞬きをする暇もなかった。



唐突に体中を酸素が覆ったように、おれは思い切り息をした。「げっ…ほ、げほ!」つなぎからは袖からも裾からも水が零れ落ちて、たった一瞬のことだったのに体中が重くなったような気分だった。おれのすぐ横で、サラワも控えめながら咳きこんでいる。「煙幕はって速度あげろ!!」「前方30度の海流に乗る!! 進行方向確実に押さえろ!!」聞こえる音が急速に遠ざかる。

上手くいったんだろうかとぼんやりとした頭で思った。かけていたはずのサングラスが下に落ちているのに気づいて、拾い上げようと――したら、視界が突然真っ暗になった。力の限り抱きしめられる。見えたのは黒い髪と、…それから、見慣れたシャツのラインだった。

「…せん、ちょう」

げほ、もう一度軽く咳きこむ。船長はおれとサラワを思いっきり抱き込んで、おれたちのつなぎをしわがにじむほどに握りしめていた。震えることはない。それでも、いつもと違って安全の保障されない方法だったことには違いなかった。

「…っ、テメェら、ほんとに…!」

船長の頭越しに、ようやく気付いたようなサラワと目が合う。二人して苦笑する。そうっと腕を回して、同時に船長の背中をぎゅっと抱いた。あったかい。

「せんちょ、せんちょ」
「…なんだ」
「あのね、さっき潜ったとき見たんだけど、すっごいでっけー魚だった!! せんちょも見た?」
「潜水艦じゃ上は見えないでしょう。僕も見ましたが、随分と立派な大きさでしたね」
「なー! アレ食ったら美味そうだったのに、ちょっともったいないな」
「料理人さんはそうやってすぐに油断されますけど、僕はどうかと思いますよ?」
「ちょっ、別に真っ最中じゃないんだからいいじゃんか…!!」

サラワのドエス! 船長のシャツを掴んだまま、船長を壁にしてフーッと噛みつく。サラワは声なき声であとで覚えておいてくださいふふふふとおれの耳に問答無用で叩き込む。か弱いおれは怯えるばかりである。酷い。

二人してぎゃんぎゃん言い合ってたら、小さくため息をつく気配がした。なんでもない顔で船長を見る。船長は少しだけ疲れたような苦笑で、「…テメェらな」とまたため息をついた。もう一度だけ引き寄せられて、ぎゅっと抱きしめられる。今度はすぐに離れた。おれもサラワもびしょびしょだったので、船長も今では濡れネズミみたくなっている。

「今すぐ体温めて来い。ここからはこっちでやる」
「あいさー」
「了解です」
「キャスケットは、落ち着いたらサラワに茶でも淹れてやれ。その後は自由にしてろ」
「あい! 皆も落ち着いたらおやつにするから、食堂集まってってせんちょから言っといてください」
「僕も僭越ながら、笛でも吹きましょう。少しでも気が休まりますよう」
「…分かった」

苦笑した船長はすぐ後ろにあった刀を拾って、そのまま操舵室の方へ向かっていく。その背中に、「せんちょも服乾かしてくださいねー!」声を投げれば、船長が振り向かないままで手をひらりと振った。サラワと目を合わせて笑う。多分あのままほっとけば、ペンギンが怒ってくれるだろう。

立ち上がるために床に手をついたら、つなぎから出るひもにくくられた電伝虫が、無事なかたちで転がっているのに気付いた。拾い上げて水を払う。うらめしそうな顔でおれを見る電伝虫に、小さな声で「おつかれさま」と呟いた。





TITLE:white lie
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