"それ"はぶつかった木の根元にばしゃりと広がったまま、かたちを為さずに流れていく。死んだ、わけはないと本能が知っていた。遠くの海の波と違う、違和感のあふれる水の音。ざわざわと這いあがるような寒気がした。

仕込みナイフだけでは心もとない。腰に巻きつけた中型のナイフにも手をかける。燃える瞳は熱量を感知し、聴神経までをも尖らせる。ただそこに感じる異質を、おれはとらえきれなかった。

「――ッ!!」

目の前の物体が動く、その移動に何もかもが追いつかない。水たまりから突如として伸びた腕のかたちをした"何か"に、首回りを拘束されて木に叩きつけられる。「っ、がっ!!」息が詰まる。というよりは、心臓をそのまま圧迫されるような。

体中を恐怖がまとわりついた。どんな獣でも海王類でも相手どる心の強さは自負していたけれど、想像もつかない"何か"と戦えるほど、おれは大人でも強くもなかった。痛みだけではない涙がにじむ。非力な自分が、これほど憎い。

「…村の子どもだな」
「――!?」
「能力者を見るのは、初めてか?」

――唐突に、尖る神経が言語を確認した。

おれは思わず目の前の"それ"を凝視した。水――というのか、ただ液体としての形状のみを漂わす物体が、今間違いなく言語を発した。言葉を話す液体――? そんなもの、たとえこんな海であってもあるわけが。

液体は今「能力者」と言った。おれの緋色が能力であるとするなら納得もいくが、こいつの液状化までもが能力だというのはどういうことだ。――…そこで、気づいた。こいつが今つかみあげているその場所、それは確かに"人の"腕の形をしている。暴力的なまでの確信。

「お前――人間、か…!」
「ご名答。子どもにしては聡明なようだ」

ぎり、掴みあげられたままの相手の腕をつかみ返す。それは確かにさっきまで液体状であったもののはずだった。それが今は、おれの弱い力でも掴めるほどの実体をもつ。耳に残る、能力者という言葉。これも呪いなんだろうか。

「さて子ども。村までの道を案内してもらおうか? 島は手狭だが、生憎と私の風貌は目立つからね」
「ッ――アンタ、ここにどうやって、!」
「単純な話だよ、子ども。島には海から、船でやってくるものだ。親に習わなかったのかい?」

親、という言葉に胸のどこかがズキリと痛んだ。今まで親がいないことに傷ついたことなどなかったのに、この男の声で聞くとそれが吐き気を伴うほど痛く響いた。地面から這い上がるようにして実体を持った、その男の目は濁りきっていた。

「この村に人魚がいるという話は知っているね?」
「――知らない」
「嘘はいけないよ、子ども。人魚はどこにいる?」
「知らねぇっていってんだろ! 離せッこの…くそやろう!」

気持ち悪い気持ち悪い。脳の裏側に押し寄せるように感情が渦をまいた。見たこともない人間に、それも得体のしれない何かに、触られることがこんなに気持ちの悪いことだとは知らなかった。男は困ったねえ、となんでもない風に呟いて、おれの首をつかむ手のひらにまた力を込めた。――息が、できない。

「っ――!!!」
「さて、子ども。このまま死んでしまうかい? それとも素直に案内をするかい?」

どこまでも笑みを絶やさない男。泳ぐことも日常であったから呼吸をしばらく止めることは困難ではなかったが、止めるのと止まるのではやはり雲泥の差がある。見た目は細身の癖に、男の力はどこまでもおれを死に近づけていた。頭がくらくらする。――それでも、生きることを諦めるわけにはいかなかった。

(――…っ!!)

今は掴まれているが相手は液体だと考えた方が納得がいった。まだ子どもだといってもそう小さくはないおれの体を軽々と持ち上げる、その力に敵うわけもないことも知っていた。ナイフはさっき叩きつけられたときにどこかへ行ってしまっていた。ポケットを探る。おれには武器はもうない。――だが。

「これでもっ…!」

食らっとけ、という声は出なかった。ポケットから出した『海の石』、いつかの日にイルカからもらったお守りの石の、その尖った先端を思い切り男の腕に突き刺した。「な――カイロウ、セキ…!!?」男が聞いたこともない言葉を発しながら思い切り飛びのき、その反動でおれはまた後ろの木へと突っ込んでいった。もう体のどこが痛いのかも分からない。

アバラを支えてどうにか男を視界にとらえる。男はなぜか、石の刺さった腕を支えたまま倒れこんでいた。「……?」肩で息をしながら、それでも油断することなく男を見る。男はうめいてもがきながら、それでも立ち上がることはできないように見えた。

なんとか立ち上がって、ふらふらと男に近寄っていく。その途中で、地面に落ちていた中型ナイフをゆっくりと拾い上げた。男はおれに気づかない。つま先で少しだけその背をつついてみたら、すっかり弛緩してしまっている筋肉を感じ取れた。…一体あの石に、どれだけの力があったんだろう。

「くそっ、…なぜ、お前のようなガキが、カイロウセキなどっ…!!」ぎりぎりと奥歯を削るように合わせながらうめく男の、緩んだ背中を思い切り蹴飛ばした。「――!!!」声もなく転がっていく男の腕に、あの『海の石』が突き刺さっていた。さっきまでは気づかなかったが、ポケットの中で割れてしまっていたらしい。石相手にもがく男はどこか滑稽だった。

ひゅん、ナイフで空を切る。男はまだ、おれに気づかない。村を襲うような――それでなくとも、侵入者は排除すべきと教えられている。なぜならこの島は弱いからだ。目の奥が燃える。赤い世界。



「人魚さえ、人魚さえ手に入れば――!!」

男が最期にいった言葉は、おれには到底理解できなかった。
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