思うままに泣いて、泣きつかれて眠った。今度の眠りは自分でも驚くほど深く、体中の力が全部ぬけていくようだった。それから――少しだけ、あの頃の夢を見た。晴れた空とたくさんの声と、イルカの笑顔。もう涙は出なかった。

「――…あたまいたい…」

浮上した意識をそのままにして、思ったことを呟いた。腫れぼったいまぶたよりもガンガンと響く頭の方が重傷なようで、それでも気分は前よりもずっと落ち着いていた。

「目が覚めたか」
「! …えと、起きまし、た」
「…よく眠れたなら何よりだ」

ローはおれの腕を触って脈を診てから、喉と額に手のひらを押し付けた。「熱は随分下がったみたいだな」この分なら明日明後日には起き上がれるだろう。ローは満足そうにいって笑った。

「…あんた、ずっとそこにいたの」
「馬鹿いうな。おれもそこまで暇じゃない」
「…ですよねー…」
「今日一日はゆっくり休め。何よりも体が資本だからな、病人にうろつかれちゃこっちも困る。…ベポ!」

刀を肩にあてたローが振り向きざまに叫ぶと、扉の向こうから元気な声でアイアイ! と低いがどこか可愛さを残す返答があった。すぐさまがちゃりと扉が開く。

「ぎゃー!!!」
「うわー!! 何なに!!?」
「くまァー!! おれ食われるー!!」
「クマですみません…」
「打たれ弱ッッ!!」
「…うるせェなてめェら、今すぐバラすぞ」

ちきん、刀独特の澄んだ音。おれとそのクマは同時にすくみ上って、お互いの手のひらをお互いでつかんで「スミマセンでした!!」「ごめんなさいキャプテン!!」と同時に叫んだ。何この人、すっげェ怖い!

「ぐだぐだわめいてるようだったら、今すぐ海に叩き落としてやるからな。覚悟しとけ」
「ラ、ラジャーです」
「ベポ。お前はこいつの目付け役だ」
「アイアイ?」
「船の使い方でも教えてやれ。それから――…ああ、シャチ。お前何ができる?」

収めた刀を肩にとんとんとあてて、ローは静かに首を傾けた。何が、と口の中で呟く。横になったままで手のひらを見た。おれにできること、なんて――…何もない。おれの使命は、イルカを守ることだった。それを失った今、もうおれの手に残ったものなんてなかった。

「…何もできない」
「…何も?」
「おれが役立たずでも、あんた、おれを海に捨てる?」

計算などなにもなく、ただ漠然とした疑問として音に乗せた。おれが何かの役にたつと思って船に乗せたのなら、ローの思惑は外れたことになる。なら、ただの穀つぶしとして船に置いておくよりは、捨ててしまった方が効率がいい。おれはまだ17になっていなかったから、船の技術も波の読み方も知らない。

「戦闘員として使いたいなら、それでもいいよ。でも、あんまりすすめない」
「…なぜ」
「暴走するから」
「暴走――…ああ、どこかの本で見たな。緋色の瞳」
「…物知りだね、あんた」

だったら話が早い、ともう一度ローの目を見返――そうとして、額に人差し指を突き付けられた。そのままぐいっと押される。弾かれた、というよりは抑え込まれるような、それから感じる少しの威圧。

「くだらねェこという余裕があるなら、その目をどうにかすることだな」
「目? …あ、」
「気づいてなかったのか? そんなに瞳の赤い民族はそういるもんじゃない。偉大なる航路にはウサギみてェな民族の伝説があるが、…お前がその末裔か」
「それ、…は、分からない。でも…」
「緋色の瞳は癖になるらしい。発動させる訓練ができたなら、抑える訓練をするように心がけろ。戦闘は直感でやるもんじゃねェ。頭を使うんだ。覚えとけ」

こつこつ、刀で二度肩をたたく。この人の癖、なんだろうか。この目の前にいる人が、なんだかおれの分からないことばかりを言うように聞こえて、おれは一度開いた口をゆっくりと閉じた。それで、と継ぐその声をたどる。

「お前は何ができる。掃除でも洗濯でも料理でも裁縫でも、何かできればお前だって一人前の男だ。ここでは年は関係ねェ。やるか降りるか、それだけだ」
「……えと」
「ん?」
「料理、なら。少し」
「へえ」

この人が驚く、というか感心する、という表情を初めて見た。少しだけ嬉しそうに聞こえるトーンでおれの顔をのぞきこむ。

「料理っつーのは、どの程度」
「山菜料理なら…多分一通り。肉料理はあんまり得意じゃないけど、慣れれば普通にはできると思う」
「なるほどな。…さて、驚くべきことに、この船には今コックがいねェ」
「は?」
「お前、やるか?」

コックがいないとかこの船の食糧管理とか栄養管理とかどうなってんのっていうかあんたら今まで何食って生きてたの、濁流のように流れ出しそうになった疑問をなんとか押しとどめて、おれはローの瞳の色をうかがいながら、そっと頷いた。おれでいいなら。そういったら、「お前がいいんだ」ばかだな、ともう一度呆れたように肩をすくめられた。

「ベポ、案内ついでに厨房の勝手を教えてやれ」
「アイアイキャプテン。…えっと、シャチ?」
「あ…う、ん」
「シャチ」

白くま――ベポ、が、おれを呼んだのにびくっと肩を揺らしたのを見られたのかもしれない。ローが少しだけ重い声で、ぴんとはりつめるようにおれを呼んだ。

「本名で呼ばれるのは嫌か」
「……おれ、」
「………」
「…おれは、いや、です」

ぐっと拳を握って、それでも嘘はつかずにそう返した。思い出したくない。それはあの身を割かれるような情景ではなく、泣きたくなるほどに幸せだったあの光だった。おれをつなぎとめる唯一の。薄れてしまうようなものじゃない。むしろ、逆流するのが怖かった。今度はもう、戻れないかもしれない。

黙り込んだおれをじっと見て、またローは刀を揺らした。かちり。かちり。そのうちに、ふん、と息だけで頷いた。そっと窺い見ると、ローはどこか違う場所を見つめている。そうだな、と呟くように言って。

「…なら、キャスケットはどうだ」
「キャス、ケット?」
「casket。宝を入れる、至上の小箱」

そういって、ローは近くの棚から誰にも使われていないのだろうキャスケット帽を手に取った。軽く埃をはらう。少しの間その帽子を手の内でくるくると回してから、おもむろにおれの頭にぽふりと乗せた。左右に揺らし、満足げに笑う。

「おれがお前のその中に、ありったけの宝を詰めてやる」

覚悟しておけ、指先がぴしりと額を打つ。だがそれは、決して痛みばかりを伴うものではなかった。止まったはずの涙がにじむ。

「今日からお前もおれのクルーだな。キャス」
「…了解。船長」

その背にうたう、最上の響きがそこにあった。
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