もう一度目を開いた時には、体よりも冷たい何かに包まれて、おれは見たこともない木張りの部屋に横たわっていた。ゆっくりと視線をたぐらせると、おれを包んでいる白に目がいった。シーツと毛布。落ち着いて足を伸ばして寝たのは何日ぶりだったろう。随分ぐっすりと眠っていたらしいおれの頭は、久しぶりに飽くほど与えられた睡眠に意識をぼんやりと霞ませていた。

「起きたのか」

かちゃり、右方にあった扉が音もなく開く。反射的にとび起きようとして、意志とは裏腹に重力に縛られた体に引っ張られて逆方向に沈んだ。うえ、つい唸ってしまったおれを見て、入ってきた男が静かに苦笑するように喉をならした。

「まだ起き上がらない方がいい。今まで4日は眠ってたんだ、そうなるのも当然だろうな」
「よっ、……か、って、」
「気づいてなかったのか? 疲労と傷と、あとはショックか。これでも早い方だと船長がいっていたが」
「しょっく…」

抑揚なく話す深い声を聴きながら、思い出す。あの時――…あのとき、おれは、あの話を聞いて。

「っ、……!!!」

心臓が脳の中心に叩きつけられるほど強く跳ねた。呼吸が一瞬とまる。思い切りシーツを握りしめて、こみ上げる吐き気だけを抑え込もうと手のひらに爪を刺した。まぶたの裏に、思い出したくもない景色が流れる。土石流のようにぐしゃぐしゃになった記憶。叫びたくも声が出ず、いっそ死んでしまいたくなるほどの悪夢を超越する現実。夢じゃない。あれは。

「っああああ!!!」
「ちょ、…っ、おい!」
「いやだいやだいやだいやだいやだ!!!」

目の裏が真っ赤に燃える感覚。必死になって手を伸ばした。おそらく血に染まっているであろう手を伸ばして、触れた体温を全力で握りしめた。離したくない。イルカ。イルカ。おれをひとりにしないで。あんたがいなくなったらおれは、おれは、――いやだ、ひとりになるのはいやなんだ、おれはあんたがいたから――!


パァン、真っ赤になった世界に乾いた音が響き渡った。


吐き気と抉るような熱を持ったまま体全体で息をする。息ができる。おれは、…生きて、いるのか。どうして。

「…目を覚ませ。ここはもう悪夢じゃない」

ぐちゃぐちゃになった視界に、ひとつの色がにじんだ。黒。深淵に浮かぶ幻のような。白をたどって、おれはその瞳をまっすぐに見返した。少なくとも、おれの意識では。
震える感覚をたどれば、おれがきしむほどに握った腕は、この――あの時おれを拾った男の腕であるらしかった。気づいてからも力が緩められない。整えてもいない爪が食い込むその痛みに、男は表情ひとつ動かさなかった。

「おれを見ろ。…分かるか?」

細められた目。その下の隈。少しだけ栄養不足が見える。白い帽子。黒い模様。その奥の、瞳。
石のようにかたくなった手のひらをゆっくりと開く。べきべき音でも鳴りそうだ。指の関節がきしきしと痛む。胸やけのような痛みを抱えて、ゆっくりと手を伸ばす。目の前の男は動かない。おれをまっすぐに見て、時折そっと瞬きをした。その頬に。触れる。

「…ったかぃ…」

張りつめた空気がゆるやかに霧散していく。初めにおれに話しかけてきた男がほっとしたように息をついた。頬に触れた手のひらに、あたたかい手のひらが重ねられる。それでもう一度目を瞬いた。ぼやけた視界にいる男は、初めて会ったときとは別人のように、優しい瞳でわらっていた。

「…もう大丈夫だな。話せるか?」
「……ぁ、い」
「そうか。おれの名前はトラファルガー・ローだ。分かるか」

頷く代わりに、まぶたをゆっくりと閉じて、開ける。そうか、と男――ローは、満足げに笑った。

「あっちにいる、おれより前に入ってきたのがペンギンだな。うちの航海士。おれたちは海賊だ。ここまでは分かるか」
「…ん、たら、かいぞく…」
「そう。まあ、所謂無法者ってところだな。まだルーキーだから名前なんぞ知らねェと思うが、その辺りはおいおい覚えていけ」

いつの間にかこぼれていたおれの涙を親指でぬぐって、ローはおれの上からそっと体をどかした。この人は、動くときに無駄な音がないな、と思った。きれいな人だ。そう思ったらまた胸がずきりと痛んだけれど、さっきのように襲い来るようなものではなかった。

「お前の名前は」
「………」
「言いたくないのか。知られたくないのか。それとも、呼ばれたくないのか」
「ぉ、…れ、…でも」
「なんだ」

畳み掛けるような質問とは裏腹に、ローはおれのサイドでだらけたように座りながらおれを見返した。おれの、名前。聞き返された選択肢の、そのいずれもがノーだった。おれの名前を呼んでくれた人はもういない。呼ばれたかった人ももういない。だから、思い出すのがつらかった。ここでいずれ捨てられるとしても、それは傷として深く残る。もしまた失ったら。捨てられたら。それなら。

「…おもい、だしたく、ない、」
「――…故郷のことか」
「……そう」
「無理強いはしない。お前のことなど何も知らないんだからな。ただ、この船に乗るなら――…そうだな、おれに秘密を持つのは構わない。だが、」

かたり、持っていた刀(今気づいた)のつばをたどって、一瞬だけ親指で跳ね上げる。きん、澄んだ音が部屋の天井にぶつかって落ちて。

「おれの前で、嘘はつくな」

きれいな、瞳だと思った。感情が一気に噴出する。イルカ。最後の姿よりも鮮烈に焼きつく、常に側にあった笑顔。溢れだしてからは、もうぼろぼろと止まらなかった。チューブだらけの腕をなんとか持ち上げて両目を覆う。イルカ。イルカ。もう呼べない。もうあの、きれいな瞳はおれを映さない。嗚咽はもう酷いくらいで、横向きになっても隠せるようなレベルではなかった。いっそ涙に飲まれそうなほど。

「っ、おれ、」
「…ああ」
「シャチ、です…!」

なまえ、喉をひきつらせながらなんとか答える。ローは静かに笑ったようで、また音もなくおれの頭をわさわさと撫でた。

「お帰り、シャチ。今日からここが、お前の居場所だ」
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