ある朝、海から戻ったおれは、遠くに小さな黒雲があるのを見つけた。不思議な気持ちだ。ここには雨すら滅多にない。それでもこの地が渇きに飢えないのは、地下水が豊富にあるからだ。無限だと信じているそれが尽きた時、おれたちは誰にも知られずに死んでいく。それを、島民全てが受け入れていた。

(…雨でも降るのかな)

おれは生まれてから三度だけ、雨というものに遭遇したことがある。空から水が降ってくるのだ。それは不思議な光景だった。

イルカが心配するかもしれない、出来る限りの速さで道を急ぐ。途中で左右に分かれた道があって、いつもは左を通っていくところを、今日に限って迷うことなく右の方へと足を走らせた。正直な話、左を行くよりも右の方がずっと近道なのだ。ただ、村の大人たちはみんな、この道から右は危険だと口をそろえていう。

(こんなタイミングで何かが出たりもしないだろ、っと)

積み重なっている瓦礫を越えて、背負っているカゴが傾かないようにしっかりと支える。初めて足を踏み入れた裏山は、それでもちゃんと轍があった。人が通った形跡。所々に不自然な形の木が立っているのが気になったが、後ろの雨雲の足が速くなったのを見て無視することにした。どうせ何かの目印にでもしてあるのだろう。

木々の間を走る。この血のせいかどうかは知らないが、村人は一様に脚力は強かった。同様に足も俊足の域に入る。ここらに出る海王類やらが速さに特化しているせいもあるだろうが、気づいた時にはこの速度で走っていたおれたちにその自覚はない。便利でよかったと思ったことはあれど、それだけのことだった。

しばらく走り続けて、そろそろ村だと思ったところで、――…鈴の音が響いた。といっても、そう大きな音ではない。しんとした森に突き刺さるような静けさ。その真ん中で、凛と。

(――…なんだ)

何か、来る。


「――っっ!!」

直感のまま振り向いた。その先、ほぼ距離も感じさせない速さで、茶色い影が疾走してくる。けもの、と瞬時に閃いたその単語は、けれど聞いたこともない足音で混乱を見る。島には"ユニュウモノ"という言葉があった。それはそのまま、島外から何らかの形で持ち込まれた生命体やものを指す。滅多にあるものではない、言うまでもなく、この島は孤島であるからだ。

(触れたらヤバイ)

本能からそう思った。得体のしれない生命体に触れる危険性、抗体を持たない自分、腰のベルトに刺していた草刈り用の鎌を思い切り引き抜いた。体中が燃えるように熱い。血が逆流するような感覚。

(――切断するか動きを封じる)

それしかない。目の裏側に熱を集め、一気に見開いた。視界すらも赤く染まるような熱量。直線的につっこんでくる"それ"を横軸の動きでかろうじてかわす。動きと同時に首へと叩き込もうとした鎌が、意識しない腕の力に止められる。そのまま目の前の草むらへつっこんだ。

(なんだ今の…!!)

背筋にぞわり、と何かが這うような感情が降りた。正常時にはおそらくそれが『得体のしれないものへの恐怖』だと感じることができただろうが、今のおれにそんな余裕などない。先程よりも近距離で視認する、"それ"はすでに生物のかたちすらしていないように見えた。

つっこんできたものは確かに獣のかたちをしていたはずだった。けれど、おれがいなくなった空間につっこんでいったそれは、…どう見ても、ただの液体でしかなかった。もしくは水。透明な"それ"は木にばちゃりとかかり、為したかたちを全て崩して霧散する。

「…ばけ、もの」

そう言うしかなかった。おれの知る限り、かたちを崩すものは全て「呪われた何か」だった。そう聞かされてきた、大人たちの表情を思い出す。――"呪いには抗えない"。ぎり、奥歯をきしむほどかみしめる。

(死んでなんかやれない)

おれの命はおれのものだとくだらない道徳教育で聞かされることが多々あったが、おれにはそんなもの必要なかった。おれの命はイルカのものだ。イルカを守って生き、イルカを守るために生きる。それだけでいい。だからこそ、イルカがおれを必要だといってくれている間は、絶対に死んでなどやれるはずもなかった。
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