ありふれた日常にふと気づいてみる瞬間があった。
ソファに寝転がる佐治がオレの部屋で拾ったという雑誌をめくっていて、テーブルの上ではほんのり甘く淹れた紅茶が湯気をたてている。刻む時計は未だ夕刻を過ぎたばかりだ。

ぱらり、右後ろから小さく紙のすれる音が聞こえる。時折佐治が口ずさむ鼻唄は、オレも時を同じくして聞いていた少し古めのフォークソング。佐治の声は好きだ。言うなれば、風に逆らわずすべる木の葉のような。長年聞き続けた佐治の声は耳になじんで、ただそれだけでオレの心の中心を震わせた。目を閉じて聞き入る。ぱらり。

「――倉橋」

意識を急激に引き戻す、鉄面にはじけるような呼応だった。反射的に目を開く。ひとつ瞬きをして、出来る限り物音をたてずに振り返る。…佐治は、オレが気づく前と、体勢も何も変わらないままだった。

「…佐治?」
「…んだよ」
「今、佐治、オレのこと呼ばんかった?」

ソファに肘をついて首をななめにする。佐治はそのままの体勢で視線だけをこちらに寄こした。もう一枚、めくる。「…呼んだだけ」落とされたそれは不機嫌の色をしていて、身に覚えがないオレはただ疑問符を浮かべるしかない。

膝だけをついて、半身を起こしてソファにもたれかかった。そう大きくはないソファだから、佐治が寝転がればそれでいっぱいだ。文句を言われないのを良いことに、そのまま向こう側にも手をついて、体重をかけないようにして佐治を抱きしめた。鼻先で耳の後ろから首元までをたどる。ただぎゅっと。佐治はちいさく狭い、と呟いてから、ソファのすぐ横に雑誌を投げ出した。体を完全にソファに預ける。少しだけ悩んだその一瞬に、佐治が腕の隙間からちらりとこちらを見た。

「…来るならちゃんと来いよ」
「そ――れは、…どういう意味」

ぱち、と瞬きで返せば、佐治は無表情のままどっちでも、と答えた。選択権はオレにあるらしい。そういう雰囲気でも、佐治の気分がそういうわけでもない。オレはよいしょ、と全身を佐治の隣に横たえて、今度は全部で佐治を抱きしめた。

パーカー越しに感じる体温。ぬるま湯のような日常の中で息をする。オレの選んだ答えに佐治はもう何も言わなかった。ただ、オレに背を向けるようにして寝返りをうって、添えていただけのオレの手をとった。指を通してきゅっと繋がる。ひとつひとつ形の違う、ペアとは到底いえない同じ色のリングがかちりと鳴った。それさえもきっと、特別ではないのだろう。

「…1時間」
「はいはい。おやすみ、佐治」
「おやすみ」

まだほんのりと肌寒い今日、佐治が風邪をひかないように腕の中に閉じ込めた。すぐに緩やかな寝息が聞こえる。こういうときの佐治は寝つきがいい。

つないだ指がほどけないように、静かな時間が壊れないように、今度はオレがちいさく、さじ、と彼の名前を呼んだ。
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