かちゃりとドアノブを回す。丁寧に手彫りされた模様の入るそれを開けると、いつもよりは少しフォーマルな服の男が手を上げて俺の視線に応えた。
「よ、千種」
「…まだ時間じゃない」
「うん。でもなんか待ちきれなくてさ」
来ちゃった、男がアホ面のまま笑う。俺はため息をついた。
「骸様ならまだ寝室。…起きたばかりだから」
「なんだ、今まで寝てたんだ?」
「時間に間に合うように起こせといわれた。それだけ」
「そっか」
とりあえず入れば、促した室内に男はためらいもなく踏み入れる。お邪魔しますなんて断り、いわれなくても分かっている。
「あ、千種」言葉もなく奥へ向かった俺に、今度は断りなくソファに収まった男がちいさくいった。
「骸には、俺が来てるってまだいうなよ」
「…めんどい」
「グラッツィエ」
寝室に続く扉を開ける前に、主にいわれている通りにお茶を淹れてぞんざいに置いた。この男と同じ空間にいるのは不快以外の何物でもない。俺たちの世界にいきなり入り込んできた光。
「千種、僕の櫛しりませ」
「あ、むく」
「――きっ」
きゃああああばたんどたどたどた!!
…沈黙。
声をかけようと手をあげたまま、ぽかんとした表情で固まる男をため息と共に見た。突然姿を現した主が同様に突然駆け逃げる、その理由――…と、いうか。
「い――まの、って」
「…以前跳ね馬が置いていったのがあっただろう」
「や、やっぱり俺のシャツ…?」
ぶかぶかの袖、余りきった裾をパジャマのズボンに適当に入れた姿、髪も結ばずにぼさぼさの頭を手入れもしない状態で、いつもなら俺や犬以外には見せるはずもない姿で走り去った主を頭痛と共に思った。家にいると気が抜けるんです、毎朝髪をセットしながらいわれた言葉。
…きっと、この男にも。
「…幻滅した」
「幻滅?」
「骸様がいっていたから。幻滅されたくないと」
「家にいると」――それを裏返せば、泊まりで夜を共にしたとしても、気を抜くことはないということだ。想われている相手に、素の自分を見せることが怖いということだ。
この男を想うことを恐怖した、あの時のように。
「…骸様は、」
「千種」
「………」
「…分かってるよ。あいつが怖がりのくせに寂しがりなんだってことくらい」
覆っていた手を外した男は、ただ嬉しそうに破顔していた。困ったように、あきれたように。しょうがねえなあ、呟いた声は柔らかで。
「骸の寝室ってどこだ?」
「…奥。入って右」
「ありがとな」
ソファの肘掛けに手をついて立ち上がる。奥に続く扉の前に立って、一瞬おいてからそれを開けた。俺はただ、消えていく背中を目で追った。引き止めはしない。
きっと主に訪れるだろう幸福に、俺は静かに目を閉じた。
星をつなぐ物語
(空になったカップ)
(それを満たすのは、)