僕のうちの隣の敷地の、大きなお屋敷に住んでいる、白くて背の高い女の人は、いつも白い着物をきて、その細い指で柄杓を持ち、庭先の苔に水をやっています。僕が、こんにちは、と言うと、きいろい目を細めてニッコリ笑います。
お屋敷は木造の平家で、柿や梅や紅葉など、たくさんの木に囲まれています。立派な玄関には苔むした大きな岩が置いてあって、入ったことは無いのですが、そこから奥まで、石畳が続いているようです。愛知の山奥にある、僕のおばあちゃんの家に少し似ています。しかしここは東京ですし、少し歩けばビル群もありますから、このお屋敷はここ一帯ではとても珍しく見えました。お母さんに聞くと、このお屋敷は昔、旅館だったそうです。

僕が高校へ登校する朝早く、このお屋敷の前を通ると、必ず白い女の人が立っていました。女の人は大抵、柄杓と水の入った桶を持っていて、苔に水をやるか、道路に水を撒くかしていました。女の人は肌が白いだけでなく、髪も白く、そして着物の上からでもわかるくらい、とても細かったです。柄杓を持つ細腕が折れてしまわないのか心配なほどでした。とんでもない猛暑日で、僕が汗を流して登校していても、女の人が汗をかいているのは一度も見たことがありません。そして、こんにちは、と挨拶しても、ニッコリ笑うばかりで、声を聞いたこともありません。お母さんによれば、病で声が出ないのではないかという噂があるそうです。
とても目立つお屋敷ですが、僕たち近所の人間とは殆どと言っていいほど交流がありませんでした。なので近所では勝手に「背の高い白い女の人は複雑な病により別宅で静養しているお嬢様で、時々見かける、一緒に暮らしているひとまわり小さな女の人は、その白い女の人の世話をしている」と解釈されているようでした。
女の人が病と言うのなら、あの病的に白い肌も、髪も、細さも、声が出ないのも、そして決してあの玄関以外の場所で見たことがないのにも、納得がいきます。そして何より、僕たちの生活とか、せわしない日常とはかけ離れた、なんだかこの世のものでないような、そんな空気が、あの女の人や、お屋敷から感じとられることも、不思議に思いながらも、そのように謎めいているのであれば、だからどうだということもなく、確かめようもないのでした。

もう一人の女の人は、時々外で見かけることがありました。家の近くの、坂を下ったところにある八百屋さんできゅうりを買っているその人は、今日は和装で、薄紫の着物に黒い帯をしていました。髪は、白い女の人とは違い、日本人らしい自然な黒で、一つにまとめていて、晒け出されたうなじは少しだけ汗ばんでいました。
僕もお母さんに言いつけられ、学校の帰りに、八百屋に茄子とピーマンを買いに来ていました。その後ろ姿を認めると、こんにちは、と声をかけました。すると、女の人は振り返って、こんにちは、と、優しく、しかししっかりとした発音で言いました。にこりと笑って、そのまま、それでは、と言って立ち去ろうとしていたので、僕はそれ以上聞くことは出来ませんでした。でも、これはいつものことでした。
女の人は、こちら側から質問されることを、避けているようでした。極端に避けたり、こそこそとしたり、交流を拒絶しているわけではありませんでしたが、女の人はいつも優しい雰囲気を持ちつつも、凛としていて、まるで自然な流れであるかのように、必要以上の干渉をさせませんでした。
遠ざかる背を見て茄子とピーマンを受け取っていたその時、八百屋のおじさんが、表に出て、おーい!と叫んで、女の人を呼び止めました。五百円で一口、くじが引けるキャンペーンをやっているのだと言い、にこにこしながらダンボールで出来たくじの箱を持ってきたのでした。女の人は少し驚いた顔をしてから、小走りで八百屋まで戻ってきました。
女の人は、片手で裾を持ちながら、ダンボールの穴の中に手をつっこみ、すぐに引き抜きました。白い三角の紙片を細い指に挟ませ、それをめくると、「2等」という文字がありました。おめでとう、と言う八百屋のおじさんと一緒に、僕も、おめでとうございます、と声をかけると、女の人は、とても嬉しそうにくすくすと笑って、やったぁ、と言いました。二等は風鈴でした。旧友の、ガラス細工の職人が作ってるんだが、なかなかいい音を鳴らすんだよ、と言っておじさんは店の奥から小さな箱を持ってきました。女の人はそれを受け取ると、こちらをちらりと見て、僕にそれを渡しました。
ちょうど、最近風鈴を買ってしまって。惜しいのですが、あの人が気に入っているので、こちらはお譲りします。そう言ってにこりと笑いました。せっかく当たったのに、本当にいいんですか、と聞いても、ええ、使われた方が、風鈴が喜びますよ、と言って、それでは、とさっさと立ち去ってしまいました。風鈴が喜ぶ、というのは、面白い表現だと思いながら、薄紫の背が見えなくなった坂の方を見て、僕は箱を持ったままその場に少しだけ立ち尽くしていました。
家に着いてから僕はすぐに風鈴を部屋の窓辺に飾りました。紫陽花の模様がこまかく全体にあしらわれている、まあるいガラスの風鈴で、ちりん、とたしかに良い、涼やかな音が音がしました。夕方の空を映りこませてきらきらと光るそれを見ながら、僕はベッドに倒れこみました。そして、目を閉じて、その風鈴の音だけをずっと聞いていました。

その後も女の人と、時々八百屋さんで会っては、一言二言の会話を交わしました。女の人は相変わらず凛としていました。女の人が野菜を選んでいる背に、僕は声をかけて、少しだけ話をして、女の人が遠ざかるのを見届け、僕も家に帰る。女の人と帰る方向は同じなのに。それでも、よく笑ってくれるようになったと僕は思いたかったです。
しかしその頃からでしょうか、朝、登校する際にお屋敷の玄関先で見かけた白い女の人が、僕がこんにちはと言うなり、じっと見てからすぐ庭に引っ込むようになりました。

ある日、八百屋でなく、駅からの帰り道で、女の人の背中を見つけました。その日、女の人は珍しく洋装をしていました。暗闇の中、電灯の元でぼんやりと光るような生成り色のワンピースでした。後ろから、こんばんは、と声をかけると、振り向いて、少しだけ驚いた顔をして、こんばんは、と微笑みました。
夜は冷え込みますね。そうですね。夏も終わりでしょうか。はい、寂しいですね。そんな話をゆっくりとしながら、さりげなく僕は女の人の左側を歩いていました。
角を曲がるととうとうお屋敷の塀が見えて、玄関までやってきました。すると突然女の人はびっくりしたように肩を揺らして、足を止めました。どうかしましたか、と聞き、その目線を辿ると、玄関の扉が開いていて、その奥の庭の石畳の上に、あの背の高い白い女の人が立っていて、こちらを睨んでいたのでした。
僕もびっくりしてその場に留まり、まるで蛇に睨まれた蛙のようにじっとしていたのですが、白い女の人がゆっくりとこちらに歩いてきたので、思わず一歩後ずさりました。白い女の人は玄関先まで来ると、僕を間近に見つめたあと、女の人の方を向いて、もう我慢ならん、と口をききました。僕は驚きで心臓が飛び出そうでした。その声はとても低く、まるで大人の男の人のような声だったのです。閉鎖された日常は人間のきみにとってはさぞかし窮屈であったろうが、しかし、しかしなあ、と、そう言い、また僕をちらりと見ました。鶴丸!と女の人はやっと口を開き、大きな声で言いました。鶴丸。それがこの背の高い白い女の人、いや、女物の服を着た男の名前なのでしょう。
女の人は、早口に、失礼しますと言って鶴丸さんの手を引き玄関のなかに入ろうとしました。僕は咄嗟に、待ってください、と言って、女の人のもう片方の手を握ってしまいました。なんとなく、訳もなく、しかし明確に、もう二度と会えないと感じたからです。しかしその瞬間、ばちんと電撃のように鋭い痛みが僕の手を襲いました。鶴丸さんが僕の手を弾いたのでした。鶴丸さんはいつの間には、白い女物の着物から、金の鎖のついた白無垢のようなものを羽織った姿に変化していました。そして腰にある刀に手をかけながら言いました。
許可なく主の手に触れるなど、本当は腕ごと斬り落としてやりたいところだったが、まあお前は主の友人のようであるから特別に許してやろう、しかしその蕩けた目を二度と主に向けるなよ。その時は腕だけでなくその目も、心臓も、魂ごと、持っていく。
およそ人とは思えない形相、殺気で、僕を睨むと、鶴丸さんは女の人の手を引いて玄関をピシャリと締めました。
ああ、絶対政府に気づかれた!もう!馬鹿!鶴丸!大丈夫、次はうまくやれるさ、きみと俺ならどこへ行っても幸せだろう。そういう問題じゃないのよ…。
そんなよくわからない会話がどんどん遠ざかっていきました。僕はいつのまにかへたりと地面に座り込んだまま、呆然としていて、気がつくと、目の前にあったはずのお屋敷は、ただの荒れた雑木林になっていました。
ふと、結局彼女の名前も知らないままだったことに気付きました。

あれから家に帰って母に聞いても、母は、そんなお屋敷なんてない、あそこはずっと、昔台風で潰れてしまった神社の跡地だと言いました。八百屋にも勿論その後ろ姿はなく、二等の風鈴が当たった女の人を覚えていますか、と聞いても、風鈴が当たったのは君だったろう、と言われました。
僕の部屋は秋になった今でも風鈴をしたままで、しかしその風鈴が冷たい風に吹かれ、ちりん、ちりんとなるたび、お屋敷や、鶴丸さん、そして女の人のことを、少しずつ忘れていくようでした。








無題
160817
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