目の前の男は突然息を荒げてわたしをベンチに押し倒した。シナリオ通りといった具合だった。セックスしたかったわけではないけど。でも、わたしだって無知じゃないのだ。夜道をこんなたいして知らない男と二人で歩いたら、どうなるかなんて勿論わかっていた。
わたしの若々しい肌にむしゃぶりつくそいつのことなんて気にも留めずにベンチに寝かされたまま星空を見る。素肌に夜風が当たって涼しくて気持ちいい。田舎で良いことって、沢山ある。食べ物は美味しいし、星は綺麗。この街はとくに海が綺麗。そして子供は純粋だ。わたしも純粋な子供だった。
そういえば、お母さんの言いつけ通りにこのベンチに座ってスイミングスクールのバスを待っていたっけ。ああ、思い出す。カルキの匂い。プラスチックのゴーグル。懐かしいみんな。平泳ぎの得意なわたし。コーチに怒られて駐車場で泣いたこと。ふやけた指先で凛が慰めてくれたこと。懐かしい。懐かしい。懐かしくて泣けてくる!



*****



「まこちゃん」

大きな背中に声をかけると、その背中はぐっと背筋を伸ばして、振り返ってこちらを見た。わたしが手を振って笑うと、真琴も手を振って微笑んだ。
風を遮るものが何もない田舎の駅のホームでは皆うつむいて寒さを耐え忍んでいる。真琴もその一人で、笑いながらもまたマフラーを口元まで持っていった。
真琴とはこの駅で偶然会うことが多かった。スイミングスクールをやめて、親の意向で隣町の女子高に通うことになってからも、ときどきこうして会ってよく話し込んだ。この時ばかりは電車の本数が少ないことを嬉しく思った。
真琴の手には英単語の暗記ノートがあった。真面目な真琴らしい持ち物だ。もっとも、真琴らしいというより、真面目な受験生の持ち物なのだろうが。
遥は凛とオーストラリアに行くよ、と真琴は言って、すこし態とらしく伸びをした。ふう、と吐いた息が白く染まる。その表情がなんとも言えずわたしの目には色っぽく映ったので、目をそらし、銅色の線路を見つめて言った。

「またあの二人は、二人の世界なんだね。遠くに行く」
「そうだね」
「私たちはまた残される」
「…残されたんじゃないよ」

真琴の顔色は伺えなかった。真琴は鼻まですっぽりマフラーに埋めていて、緑の綺麗な目はわたしと同じようにぼうっと線路を見つめていた。

「だってもう、二度と帰ってこないんだから。残されてない。あの二人は、行っちゃったんだ」

まこちゃんはいつも遥以外には厳しい。
電車のアナウンスが流れた。真琴は英単語のノートをかばんにしまって、手袋を取り出し、わたしに差し出してきたが、わたしは首を振った。わたしはマフラーも手袋もしていなかった。昔から、寒いくらい涼しいほうが好きなのだ。

「じゃあ、まこちゃん…、まこちゃんと私はもうずっと二人ぼっち?」
「…いや」

真琴はすこし驚いたようにこちらを見た。そして一瞬軽蔑するような眼差しをわたしに向けた後、自嘲的に息をついて、笑って言い放った。

「みんな一人で生きていくんだよ」

後日偶然コンビニで会った渚から、真琴が東京の大学を受けることを知った。渚はコンビニみたいに明るかった。



*****



親に反対してでもみんなと同じ高校に行くべきだったのかなとか、最初からこうなる運命だったのかなとか。もしかしたら、この薄ら寒い中この男にこの公園のベンチで汚らしく犯されながら、美しい星空に断罪されることは、あのカルキの匂いを纏いながらこのベンチに座っていた幼いわたしに、すでに運命づけられていた出来事だったのかなとか。
懐かしさで濡れる瞼を汚い男が舐めとる。気持ちいい?と聞かれて、気持ちいい、と返す。星たちが真摯な眼差しでわたしを見ていて、貫いていくのが気持ちよかった。風が淡々と、わたしをただの石みたいにして、脇の間を吹き抜けていくのが気持ちよかった。確かなことは多分ほんの一瞬だった。縋ったところでそれは変わらなかった。真琴もわたしも愚かで、でもわたしは縋ることすら多分全うできていなかった。中学生のとき、真琴のキスを拒んだのはわたしだった。
ずっと凛のことが好きだった。

目がさめると男がいつのまにかいなくなっていた。崩されたぐしゃぐしゃの服もそのままに、寝転がってそのまま空を見つめた。空の端がすこしだけ明るくなってきていた。田舎の夜は暗くて嫌いだ。
やめよう、と思った。この小さなベンチでバスを待つのも、セックスするのも。この小さな小さな街で生きるのを。だってわたしもみんなも、もうどうしたって、純粋な子供にはなれないんだから。凛はもうここにはいないよ。わたしの涙を拭うふやけた指先はここにはない。凛は、わたしのことを、覚えているだろうか。でもわかっている。覚えていたっていなくたってそれは、現実の力には成り得ないのだ。
今日、家に帰ったら、シャワーを浴びて、切符を買って、新幹線に乗って、東京に行こう。きっと楽しい。きっといろんな人がいるけど、きっと誰もいないんだろう。








赤い星
160804
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テーマ「人外ファンタジー」
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