彼の指はただの指なんかじゃない。彼の指は、彼の指こそ、わたしたちを最終的に救うことになる善の象徴だ。神の宿る場所。天国の、触れるところ。
わたしはあの指先から放たれる美しい軌道や、清らかな旋律や、伴うその日々全てを忘れたことはない。そしてその全てから、不幸や不遇などというものを感じたことはなかった。幸せを感じたこともなかったけれど。ただ孤独で秘めやかで、神聖で、泣きたくなるほどうつくしい。

「これはね、悪い夢なんだよ。誰かの悪い夢」

乗り過ごしても、誰も気付かない。わたしも彼も実は結構髪が伸びたのだけど、彼は気づいているだろうか。俯くと、横髪がしたまつげさえ隠してしまうことを。それによってわたしは彼が泣いているかいないのかが判別しづらくて、こうして覗き込むように話しかけていることを。
きっと誰も知らない。夜の風にゴトゴトと揺れる車両には随分前からわたしと彼しか乗っていないことも。わたしと彼がどんな気持ちで、どこに向かっているのか。わたしも、彼も、誰も知らない。

「俺の夢なら、俺は死なない」
「わたしの夢なら、わたしは死なない。だからきっと、他の誰かの、ほんとに一度も見たことないような全く赤の他人の、そんな誰かの悪い夢なの」

街灯がぽつりぽつりと規則的に枠のなかに現れて消える。大きな彼の体の呼吸のリズムにあわせて、電車は知らない道をどんどん進んでいた。
彼の左手をとり、ゆっくり丁寧に、テーピングを解く。そして、わたしの両手で包み込んだ。口づけすると、夜の空気と、薬の味がした。

「ね、永遠なんて、ないんだよ」

わたしの触れられない天国の蓮も、地獄の針も、このうつくしい左手の指の、すぐ先にある。
だから二人が辿り着けたら、微笑んで。








130621
午後には雪が降る
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