黄瀬くんのいる教室に、女の子が一人、入っていきました。しかしわたしが教室のドアを開けたとき、そこには黄瀬くん一人しかいませんでした。
冬の空はもう暗かったです。濃紺の空に、痩せ細った三日月が浮かんでいました。教室の白熱灯はひとつしか着いておらず、少し暗がりのなか、黄瀬くんは開け放した窓の近くで、こちらを見て微笑みました。

「忘れ物?」

ああ、えっと、そんなところかな。本当は忘れ物なんてなかったのだけど、とっさに曖昧に濁してしまいました。そう答えたからには自分の机を漁らなければならず、とくに必要ない"忘れ物"を慌てて探しはじめました。
古典のノート、化学の資料集、なんて特に今日使う予定もない物たちをスクールバッグに詰め込みました。そしてバッグを開けたとき、今日学校に置いていく予定だった現代文の教科書が、何故かバッグの中に入っていることに気づきました。ついでにそれを机の中にしまってしまおうと、教科書を取ったその時、一緒に掴んでしまったらしいプリントが一枚、ひらりと、少し遠くまで飛んでいってしまいました。
拾わなきゃ、と立ち上がると、目の前には背の大きな彼が立ちはだかっていました。

「どうぞッス」

彼は親切に、わたしのプリントを取ってくれたのでした。そしてそのプリントを見て、言いました。

「女生徒失踪多発、ねえ」

それは今日ホームルームで配られた、市からのお便りでした。彼は三日月のような目をしていました。しかしそれは次の瞬間普通の黄瀬くんに戻っていました。
わたしは、寝不足のせいだ、寝不足のせいだ、とこころの中で呟きながらも、もう既に、手のひらや背中に、小さく冷たい汗をたくさんかいていることに気づきました。
ありがとう、と、できるだけ普通を意識した声を振り絞り、それを受け取りました、がしかし、力の加減ができず、思わずプリントをぐしゃりと潰してしまいました。
はっ、としました。
まずい、と思いました。

「あれ、どうしたんスか」

さっきから鳥肌が止まらないのは、窓から強く吹き込む冬の夜風のせいだと、言いつけながらも、やはりわたしのなかのありったけの正義感が、自己防衛すらも砕き割っていくのでした。
そもそも風など吹いていないのです。不自然なまでに、木々のざわめきも、カーテンの擦れる音も、しないのです。
わたしは彼に、心底恐怖を感じていました。
沈黙の中で、わたしは恐怖と正義のふたつに首をしめられているような気持ちでした。コンマ秒ほどでそれらがけたたましく、めまぐるしく入れ替わり立ち替わり、わたしにサインを送るのでした。冷たくて気持ち悪い汗だけ、やたらかいているのがわかりました。
すると突然手に温度を感じました。
プリントを潰している手は、彼の両手に包まれていたのです。

「ねえ」

恐らく普通の女子なら、またわたしも、何もない状況だったなら、気が遠くなりそうなほど、扇情的に感じたのかもしれません。しかしわたしは衝動的にその手を強く振りはらってしまいました。そしてその勢いで、ありったけの正義感を彼に向けたのです。





「さっき…さっき、この教室に入っていった、子、いなかった、かな」

「…さあ。俺はずっとここにいたけど、たぶん、見てないッスよ」

「えっと、いつもわたしと一緒にいる子…目が大きくて」

「口も大きくて、よく舌なめずりしてる子、ッスよね」

彼はにっこり笑った。

「知らないッスよ、たぶん」

三日月の目がゆらゆらとしていた。まるで何かを怨むよう、呪いをかけるように。
だめだ。これ以上いたらわたしは。わたしまで。
溢れそうな涙や吐き気を抑えながら彼を見上げると、やはり彼はまだ笑っていて、そして不意に教室の隅を指差した。

「あはは、こんな場所に珍しいッスね、あれ。カナヘビ」

彼の白くて長い指の先には、彼の言った通り、カナヘビがいた。
床を這うそれは、目が大きくて、口も大きくて。

「舌なめずり、してるッスねえ」

音もなく三日月が笑う。









ヒュプノスが嘯く夜のこと
130608

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